デリバティブを奏でる男たち【60】 シュワルツマンのブラックストーン(前編)

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◆オルタナティブ投資の巨人


 前回にマイケル・スミスが創設した欧州を拠点とするプライベート・エクイティ(未公開株式)投資会社、CVCキャピタル・パートナーズを取り上げましたが、今回はCVCと同じ業界で活躍するブラックストーンを紹介します。

 前回も紹介したプライベート・エクイティ・インターナショナル(PEI)が毎年公表するプライベート・エクイティ・ファンドの運用資金調達額(過去5年間)PEI 300ランキングにおいて、同社は2020年と2021年にトップ、2022年は残念ながらKKRにトップを譲りましたが、2023年は再びトップに返り咲いており、資金調達力は業界ナンバーワンといえるでしょう。また、運用資産額(AUM、Assets under management)につきましても、同社はオルタナティブ投資の巨人といえる存在でしょう。2023年6月末現在、オルタナティブ投資分野の運用機関として初めて1兆ドルを超えました。2026年までに到達する目標でしたが、足もとでプライベート・エクイティが前年同期比7%増、プライベート・クレジット(未公開企業融資)が同11%増と目標到達に貢献したようです。


出所:Private Equity InternationalのPEI 300(再掲)

 ちなみに、オルタナティブ(alternative)とは、本来「代替の」とか「二者択一の」という意味の形容詞ですが、投資の世界では株式や債券、投資信託といった伝統的な投資対象とは異なる値動きを示すコモディティ(金や原油、農産物といった商品)や不動産、プライベート・エクイティ、プライベート・クレジット、暗号資産、ヘッジファンド、あるいはデリバティブなどといった投資対象、あるいはそれらへの投資を意味する言葉として使われています。ただ、こうした分野への投資が多くなると、マーケットが急変してどこかの金融商品に損失が発生すれば、その穴埋めとして他の金融商品が売られることも多くなり、どの投資対象も概ね似たような値動きになってきています。

 

◆創業者シュワルツマンの生い立ち


 同社の共同創業者であるスティーブン・アレン・シュワルツマンは1947年、米ペンシルバニア州の州都フィラデルフィアで日用雑貨店を経営するユダヤ人の家庭に生まれました。1965年に地元フィラデルフィアの高校を卒業した後、イェール大学の文学部に入学。同校の3大秘密結社の一つ、スカル・アンド・ボーンズに入会します。この結社のメンバーとして有名なのは第27代米大統領のウィリアム・ハワード・タフト(1857-1930)、第41代米大統領のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(パパ・ブッシュ、1924-2018)などが挙げられ、第43代米大統領のジョージ・ウォーカー・ブッシュ(ジュニア・ブッシュ)とは同期入会でした。

 1969年に大学を卒業した後は米投資銀行のドナルドソン・ラフキン・アンド・ジェンレット(DLJ、2000年にクレディスイス・グループが買収。クレディ・スイスは経営破綻により、2023年にUBSグループが救済合併)に入社。その後はハーバード大学の大学院でMBA(Master of Business Administration、経営学修士)を取得し、米投資銀行のリーマン・ブラザーズ(2008年に経営破綻)へ転職します。そこでは31歳のときに常務となり、後に社長も務めました。

 1985年にリーマンの元上司であったピーター・ジョージ・ピーターソン(1926- 2018)とともにブラックストーン・グループを立ち上げます。この社名は彼らの名前が由来となっており、シュワルツマンの「シュワルツ」がドイツ語で「黒」を意味し、ピーターソンの「ピーター」の由来となっているペトラはギリシャ語で「石」または「岩」を意味することから、このような社名になったようです。創業当時は資本金が40万ドル、アシスタント2名、回転式名刺ホルダー2台のみ、という質素なスタートだったといわれています。

 シュワルツマンは第45代米大統領のドナルド・ジョン・トランプと古くからの友人であり、トランプが2016年の米大統領選で勝つと、雇用と経済についてトランプに助言するための戦略・政策フォーラム(2017年に解散)が結成され、その議長を務めました。このフォーラムには、米投資銀行JPモルガン・チェースのCEO(最高経営責任者)であるジェイミー・ダイモン、ウォルト・ディズニーの社長のロバート・アレン・アイガー(通称ボブ・アイガー)、ゼネラル・エレクトリックの元会長兼CEOのジョン・フランシス・ウェルチ・ジュニア(通称ジャック・ウェルチ、1935-2020)、テスラ・モーターズ(2017年に社名変更、テスラ)社長兼CEOであるイーロン・リーヴ・マスク(通称イーロン・マスク)など、米国を代表する企業のトップが16人も集結しています。

 

◆創業者ピーターソンの生い立ち


 さて、もう一人の共同創業者であるピーターソンは、米ネブラスカ州カーニーの慎ましやかな家庭で生まれました。ギリシャ南部からの移民であった父親は鉄道会社で皿洗いをしていましたが、ギリシャ料理レストランを経営する際にペトロプロスという姓を北欧風のピーターソンに変えたそうです。息子のピーターは地元の高校を首席で卒業し、マサチューセッツ工科大学へ入学します。しかし、工学の適性がなかったのか、ノースウェスタン大学に入り直し、主席で卒業しました。卒業後の1947 年にシカゴの調査会社マーケット・ファクツに入社。1951年にシカゴ大学の大学院でMBAを取得した後は同社の副社長となります。1953年には米大手広告代理店であるマッキャン・エリクソン(現在はマッキャン・ワールドグループ傘下のマッキャン)に転職。1年後には副社長に就任しました。

 その後に同社の社長職を辞退し、米映画用機材会社のベル&ハウエルの副社長に転じます。当時のベル&ハウエルの社長、チャールズ・ハーティング・パーシー(1919-2011)の下で、競合相手であるイーストマン・コダックからマーケット・シェアを取り戻すことに貢献しました。パーシーが第34代米大統領、ドワイト・デイビッド・アイゼンハワー(1890-1969)に促されて米上院議員となったことから、ピーターソンはベル&ハウエルの社長職を引き継ぎます。しかし、1972年には第37代米大統領リチャード・ミルハウス・ニクソン(1913-1994)の目に留まり、彼も政界に入りました。国際経済問題に関する大統領補佐官を務め、商務長官にも就任します。

 もっとも、政治家としての適性がなかったのか、翌年にはリーマン・ブラザーズの会長兼CEOに転じました。当時のリーマンは創業者が亡くなって経営が困難な状態になっていましたが、彼は5年間で見事に再建を果たします。ところが、社内の権力闘争に敗れて1984年に同社を追放されてしまいます。そこで元部下のシュワルツマンとブラックストーン・グループを創業。2008年末に退社するまで会長を務めたのです。(敬称略、後編につづく)

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。