デリバティブを奏でる男たち【100】 異形再生した伝説のトレーダー、スタインハルト(中編)

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 今回はウォール街において、大御所中の大御所とされるマイケル・H・スタインハルト(Michael H. Steinhardt)を取り上げています。彼は1967年にハワード・P・バーコウィッツ(Howard P. Berkowitz)とジェロルドN.ファイン(Jerrold N. Fine)の3人で、スタインハルト・ファイン・バーコウィッツ(後のスタインハルト・パートナーズ)というヘッジファンドを立ち上げました。資本金は 770 万ドルで、その多くは家族や友人から集めたものです。

 

◆創業時の好地合い

 


 当時の伝統的な資産運用マネージャーのほとんどは、株式を買って保有するロングサイドで投資していましたが、スタインハルトらはロングサイドと、売りから入るショートサイドの両方でプレイする柔軟性を持ち、ヘッジファンドならではの戦略を採用していました。役割としては、スタインハルトがトレーディングに重点を置き、バーコウィッツとファインはファンダメンタルズ分析に専念しました。創設時の米国経済は好況に沸き、ゴーゴーの時代、つまりウォール街の熱狂時代でした。ここでいう「ゴーゴー」とはゴーゴー・ファンドのことを指し、ハイリスク・ハイリターンを追求する投資信託が非常に人気を集め、1968年末までの10年間で投資信託への投資額は2倍以上に増加しました。この流れに乗る形で彼らのファンドも成績を伸ばします。

 また、ウォール街ではブロック・トレード・ビジネスが出現し始めた頃でした。ブロック・トレードとは、投資信託や年金基金などの機関投資家がブローカーに対してまとまった株数を一挙に売買させる大口取引です。機関投資家からブロック・トレードの注文を受け取ったブローカーは、売買の相手先を探し、価格交渉をしながらトレードを完了させます。スタインハルト・ファイン・バーコウィッツのようなヘッジファンドには、こうしたトレード情報が真っ先に持ち込まれるため、彼らはブローカーが提供する買い手と売り手の情報に基づいて取引することで、競争上の優位性を得ていました。

 

◆異端のヘッジファンド

 


 もっとも、ゴーゴーの時代は1968年末にピークを迎えます。その後の1年半で株価は30%以上も下落し、多くのゴーゴー・ファンドが打撃を受けました。これらの投資信託は1980 年代まで、基準価額が急落以前のレベルに戻ることはありませんでした。しかし、スタインハルトらは以前に所有して大儲けした株式の多くを空売りし、買いポジションよりも売りポジションを増やすことで、厳しい時代を上手く乗り切ります。こうした手法は当時としては珍しく、彼らは「異端のヘッジファンド」としての評判を確立しました。

 1970年の半ばから米国株式市場は底入れし、「ニフティ50」の時代に突入します。いま「ニフティ50」といえばインドの代表的な株価指数を指しますが、当時は米国を代表する優良株50銘柄を指していました。これらは「ワン・ディシジョン(一度買ったら売らない銘柄)」といわれ、非常に人気を集めます。1972年の秋にダウ工業株30種平均が1000ドルを超えた数カ月後から、彼らはこれに売り向かいました。1973年の第1次オイルショックによりニフティ50相場は終焉を迎え、彼らは安値で買い戻して非常に高い収益を得ます。

 

◆組織の変遷とスタインハルトの決断

 


 ところが、次第に彼らは燃え尽きていきます。まずファインが1976 年にチャーター・オーク・パートナーズという自分の会社を設立することを決意して会社を去りました。その後、社名はスタインハルト・バーコウィッツ・アンド・カンパニーに変更します。そして、スタインハルト自身も、自らの人生について考え始めました。700万ドルの資産を持ち、もはや働く必要がないと感じたこと、またトレードを最優先とする生活の影響で体重が220ポンド(ほぼ100kg)にまで増え、健康を損なったことなどが理由でした。仕事を辞めようと決意しますが、バーコウィッツの提案で、取り敢えず1年間の休暇を取ることにします。

 ところが休暇中に、マーケットほど魅力的で知的な刺激を受けるものは何も見つからなかったそうです。結局1年間の休暇を経て、スタインハルトは復帰することにしました。復帰を決めた矢先、今度はバーコウィッツが独立を決意してHPBアソシエイツを設立しました。結果として、スタインハルトが会社を引き継ぐことになり、1979年に社名をスタインハルト・パートナーズと改めて再出発します。

 

◆スタインハルトの哲学

 


 スタインハルトはトレードを最優先し、市場がどれだけ下落しても絶対にプラスのリターンを出すことを徹底しました。この姿勢は社員にも求められ、会社全体がほとんど他社にはない激しさと鋭さを合わせ持つ「トレード・ファースト」の文化に染まります。また、彼は市場の変化を読む能力に並外れた自信を持ち、短期的な視点での投資判断を重視しました。

 しかし、これは市場全体の方向性に関係なく企業のファンダメンタルズに重点を置く投資手法との対立を生みます。ファインやバーコウィッツがいた頃はボトムアップ・アプローチ(個別銘柄分析)も活用していましたが、スタインハルト一人が投資責任を持つようになると、トップダウン・アプローチによる彼の判断と合わないポジションは、全て整理されるようになりました。一方で、スタインハルトは優秀な人材に高額の報酬を支払います。このような尖った経営スタイルのため、「回転扉」のように従業員の入れ替わりが激しく、「攻撃的な会社」としての評判が広まりました。

 ただ、スタインハルトの相場観がいくら優れているとはいえ、彼の投資判断が常に成功するわけではありませんでした。1987年のブラック・マンデーでは大きなミスを犯します。この年の初めに彼は株式市場の暴落を予見し、顧客レポートにもそのように記しました。プログラム・トレードの出現と、新しいデリバティブ商品の急増により、次第にボラティリティ(予想変動率)が大きくなり始めていたからです。

 しかし、毎日稼ぐことを何よりも重要視し、それまで利益が出ていたロングサイドを中心とするトレードを続け、暴落による打撃をまともに受けてしまいました。これにより数日間で年間の収益をほとんど吹き飛ばします。さらに1990年代に入ると、もっと致命的なミスを犯してしまいます。(敬称略、後編につづく)

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。