デリバティブを奏でる男たち【100】 異形再生した伝説のトレーダー、スタインハルト(前編)

ブックマーク

 本シリーズの最終回となる第100回では、マイケル・H・スタインハルト(Michael H. Steinhardt)を取り上げます。ウォーレン・エドワード・バフェット(Warren Edward Buffett)、ジョージ・ソロス(George Soros)、ジム・ロジャーズ(Jim Rogers)といった日本でも有名な3人の投資家を除けば、まさにウォール街の大御所と呼べる存在です。2014年1月には米経済誌『フォーブス』の表紙を飾り、「ウォール街で最も偉大なトレーダー」と称されました。ヘッジファンドの黎明期であった1967年にスタインハルト・パートナーズ(創設時はスタインハルト・ファイン・バーコウィッツ)というヘッジファンドを創設し、1995年までに年平均24.5%という驚異的なパフォーマンスを記録します。

 

◆貧しい家庭の優秀な子供

 

 スタインハルトは、1940年に米国ニューヨーク州で東欧系ユダヤ人の貧しい家庭に生まれました。父親は通称レッド・マギーとして知られ、宝石商を営む一方でマフィアと関わりのある密売にも手を染め、収監歴があります。加えて、大のギャンブル好きでもあった父親は家庭にあまり関わらず、スタインハルトは母親と祖母に育てられました。しかし、父親はどんなに困難であっても自分の個人的な約束を守る決意を持った人であり、また1950年代のマンハッタンの社交界でよく知られた人物でもありました。

 スタインハルトが13歳のとき、彼の人生は大きく変わります。ユダヤ教の成人式バル・ミツワーの儀式で、父親から成人のお祝いとしてペン・ディキシー・セメント(1980年に連邦破産法第11条の適用を申請)100株とコロンビア・ガス・システム(合併、分社化を繰り返し、一部は現在のナイソース<NI>)100株、合計5030ドル相当を譲り受けました。

 これが彼のトレーダー・キャリアの始まりです。週4ドル程度の小遣いだった彼にとって、この株式の価値とその価格の変動は強い刺激となり、放課後は大好きだった友達とのスティック・ボール(ルールが簡易な路上野球)をほったらかし、証券会社に通うようになりました。高校生のときにメリルリンチ・ピアース・フェナー・アンド・スミス(後のメリルリンチであり、2008年にバンク・オブ・アメリカ<BAC>が救済合併)で口座を開設し、ウォール街で働くことを夢見るようになります。

 彼は家族の中で初めて大学に進学するほど優秀でした。特別プログラムと呼ばれるカリキュラムを受講して中学を2年で卒業し、16歳で大学に入学することになります。彼は地元の大学に進学するつもりでしたが、父親の強い勧めでアイビーリーグの一角をなすペンシルバニア大学ウォートン校に進学することにしました。アイビーリーグとは、米国北東部にある8つの私立大学の総称です。アイビーリーグは米国の政財界・学界・法曹界を先導する卒業生を数多く輩出しており、米国社会では伝統的に「東海岸の裕福なエリート校グループ」として捉えられています。そのペンシルバニア大学ウォートン校で彼は統計学と社会学を専攻し、数学的な観点から人間行動を分析する方法を学びました。特に統計学の理解は、確率論を投資に応用する際に大きな役割を果たすことになります。

 

◆就職後の紆余曲折

 

 1960年、わずか3年で大学を卒業したスタインハルトは、カルバン・ブロック(1984年に現在のエクイタブル・ホールディングス<EQH>が買収)という伝統的な投資信託会社に就職します。ここで統計アシスタントとして働き始め、やがて個別企業の分析にも関与します。しかし、同社の投資方針は長期的な安定成長を重視するものであり、レースに勝つことよりも、全員が安全に乗船して船を港に無事に着かせることを目指すようなものでした。

 就職してからもスタインハルトの株式投資は続き、その頃には運用資産が20万ドルを超え、父親からも資金運用を任されるほどになります。ただ、ギャンブル好きの父親の気性を受け継いだらしく、投資してから成功するまでの時間が短いほど、彼の満足感は大きくなっていきました。短期間で成果を求めるスタインハルトのスタイルは、カルバン・ブロックのスタイルとは相容れないものでした。

 彼は1961年後半から半年ほど兵役に就いた後、『ファイナンス・ワールド』という出版物のスタッフ・ライターになります。そこで彼は「投資に関するニュースと見解」という週刊コラムの執筆と、購読者からの手紙に返信する仕事を担当します。そしてその仕事を通じて、企業の財務履歴を丹念に調べることが非常に興味深いものであることに気付いたそうです。それらは、物事がいかに大きく変化するかということを生々しく物語っていました。

 しかし彼は、この仕事が退屈で堪らず、当時の米大手証券会社ローブ・ローデス(後に合併を繰り返し、リーマン・ブラザーズとなる)に転職します。同社のほとんどの社員は、アイビーリーグの大学出身でした。後にスタインハルトは、出身校がアイビーリーグでなく地元の大学だったら、ローブ・ローデスに転職できなかっただろう、と回想しています。ここでアナリストとして働き、コングロマリット(複合企業)業界を追跡しました。やがて彼は市場から注目を集めるようになり、彼がある企業を推奨すれば、翌日のニューヨーク証券取引所では買い注文が殺到し、取引開始が遅れることもしばしばだったそうです。

 スタインハルトがスターアナリストになった頃、米投資銀行A.G.ベッカー(1984年にメリルリンチが買収)のアナリスト、ハワード・P.バーコウィッツ(Howard P. Berkowitz)と親しくなりました。彼は米老舗投資会社ドミニク・アンド・ドミニク(現在のドミニク・アンド・ディッカーマン)で共同経営者の資本を管理していたジェロルド・N.ファイン(Jerrold N. Fine)を紹介してくれました。3人は意気投合し、ハワードの発案で1967年にヘッジファンドを立ち上げることになります。その際に社名に3人の名前を入れることになりましたが、どの順番にするか相当に議論しました。最後はコイントスによってスタインハルト・ファイン・バーコウィッツと名付けられます。ここから、スタインハルトの伝説的なトレーダーとしての道が始まるのです。(敬称略、中編につづく)

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。