今回は1970年代から1990年代にかけて、ヘッジファンド業界を牽引してきた大御所中の大御所、マイケル・H・スタインハルト(Michael H. Steinhardt)に焦点を当てています。共にヘッジファンドを立ち上げた創業メンバーが会社を去った後、自らが前面に立つ体制へと移行したスタインハルトは、社名をスタインハルト・パートナーズとし、トレードを最優先とする「トレード・ファースト」の投資哲学を貫きました。その根底には圧倒的な“相場観”への自信がありましたが、相場は時に容赦ありません。1987年のブラック・マンデーでは暴落による打撃をまともに受けてしまいます。そして1990年代に入り、運命を左右するような致命的な判断ミスも犯しました。
1979年に1年間の長期休暇から復帰したスタインハルトは、運用資産の拡大を新施策として打ち出します。スタインハルト・パートナーズに限らず、ヘッジファンドに対する機関投資家の認識は当初、非常に懐疑的であり、なかなか運用資金が集まりませんでした。しかし、スタインハルト・パートナーズは好調な運用成績を毎年積み上げることによって次第に認知度を高め、運用資金が集まってきます。ただ資産が増えると、いろいろと問題が出てきます。例えば流動性の観点から市場での取引が難しくなり、従来の手法だけではパフォーマンスの維持が困難になることが挙げられます。
そこで彼は視野を広げ、個別株式でロングとショートを組み合わせるといった従来の運用スタイルに加え、先物やオプションといったデリバティブのほか、為替や債券へと手を広げ、グローバル・マクロ戦略を展開していきました。それら新しい分野で活躍するチームを構築し、世界中の株価指数先物やオプションなども手掛けました。1993年にはマクロ・ファンドを立ち上げ、先進国債で膨大なポートフォリオを積み上げます。株式と異なり、債券では当時100倍のレバレッジを効かせることが可能でした。
◆慣れない投資で失敗
ところが、1994年2月に米連邦準備制度理事会(FRB)が予想外の利上げを実施します。これをきっかけに、世界中の債券市場が急落(金利急騰)に見舞われました。米国債市場は流動性が高いため損失は限定的でしたが、欧州債市場は流動性が低く、スタインハルトのファンドは甚大な損害を被ります。実は当時、多くのヘッジファンドが新規に欧州債のトレードを始め、大量の債券ロング・ポジションを積み上げていました。加えて、ヘッジファンドを得意先とするプライマリー・ブローカーといった金融機関の自己売買部門も、同じようなポジションを構築します。彼らが揃って同じポンジョンを手放したことにより「売りが売りを呼ぶ」パニック的な展開となりました。44億ドルの運用資産を誇っていたスタインハルトは、この一件で30%を失います。
さらに追い打ちをかけたのが、米国証券取引委員会(Securities and Exchange Commission、SEC)からの訴訟です。米名門投資銀行だったソロモン・ブラザーズ(スミスバーニーと合併の後、親会社の合併により現在はシティグループ<C>)に加え、ヘッジファンドのキャクストン・アソシエイツとスタインハルトが、1991年に共謀して米国2年物国債を大量に買い占め、価格つり上げを狙ったというのがその根拠でした。キャクストンは第47回で取り上げたブルース・スタンリー・コフナー(Bruce Stanley Kovner)によって創設された会社です。詳しくは以下をご参照ください。
▼老舗マクロ系ファンド、キャクストン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【47】―
https://fu.minkabu.jp/column/1817
最終的にスタインハルトは罪を認めることなく、7000万ドルという和解金を支払い、これを退けます。和解金の75%はスタインハルト個人が出しました。しかし、巨額の損失とSECからの訴訟によりスタインハルトは評判を落とし、彼はビジネスを辞める時が来たと感じます。1994年の損失を取り戻すべくこれまで以上にトレードに専念し、年間26%の運用収益を上げましたが、1995年10月に引退を表明しました。
◆異形再生
ところが2004年、彼は意外な形でマーケットにカムバックします。それは上場投資信託(ETF)運用会社の会長兼筆頭株主という立場でした。このETF運用会社の創設者であるジョナサン・スタインバーグ(Jonathan Steinberg)は、1985年にファイナンシャル・データ・システムという会社を立ち上げ、1987年に『ペニー・ストック・ジャーナル』という広告雑誌を買収します。これを個人向け金融月刊誌『インディビジュアル・インベスター』に改め、1991年に上場を果たすほど人気を博しました。しかし、2000年のITバブル崩壊とともに広告収入が激減し、同誌は休刊に追い込まれます。
スタインバーグは2002年に社名をインデックス・デベロップメント・パートナーズに変更し、ETFの開発に専念しました。そのETFとは、時価総額で加重平均した株価指数でなく、配当や利益といったファンダメンタルズで加重平均した株価指数に連動するETFです。この革新的な投資アプローチにスタインハルトは興味を示し、同社株の14.7%の株式を保有して会長に就任しました。
更にもう一人、このETFに興味を示した人物が加わります。それはスタインハルトの母校であるペンシルバニア大学ウォートン校のジェレミー・ジェームズ・シーゲル(Jeremy James Siegel)教授でした。彼は著書『Stocks for the Long Run(株式投資 長期投資で成功するための完全ガイド)』(1994年)の中で、債券の長期的なパフォーマンスはインフレ後にマイナスになる傾向があり、株式の場合は年平均6.5%から7%のリターンを上げてきたと主張しています。これが「長期積み立て分散投資では株式こそが最も優れた投資先である」ことの根拠のひとつとなり、同著はバイ・アンド・ホールド・バイブルとして称えられることになります。後に何度も改訂版が出され、最新作の第6版は2022年に出版(日本語版は2025年:日経BP刊)されています。
このシーゲルをシニア投資戦略アドバイザーに招聘したインデックス・デベロップメント社は、2005年に社名をウィズダムツリー・インベストメント(2022年に現在のウィズダムツリー<WT>に変更)に改め、2006年には最初のETF20銘柄を発売しました。これらはスタインハルトの運用成績とシーゲルの理論を後ろ盾にして大きく注目され、同社は2011年に上場します。
▼ウィズダムツリー<WT>(月足)、1999年1月~2019年10月
ただ、スタインハルトの人生はその後も決して波風のない平坦な道のりではありませんでした。2019年には不適切発言が問題となり、ついに同社の会長職を退くことになります。とはいえ、波乱に満ちた半世紀にわたる彼の投資人生は、多くの教訓と革新を私たちに残してくれました。ウォール街の歴史を語るうえで、彼の名を避けて通ることはできません。失敗と再生を繰り返しながらも、自らの哲学を貫いたスタインハルトの姿勢は、今日の投資家にも多くの示唆を与えてくれるでしょう。【完】
※約4年にわたり執筆を続けてまいりました『デリバティブを奏でる男たち』は、本回をもちまして最終回とさせていただきます。これまでご愛読・ご支援いただきました皆様に、心より御礼申し上げます。誠にありがとうございました。また、いつか別の機会に皆様とお目にかかれることを楽しみにしております。その際も変わらぬご厚誼を賜れましたら幸いです。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。(若桑カズヲ)