デリバティブを奏でる男たち【74】 インタラクティブ・ブローカーズのピーターフィー(前編)

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 前回はポール・マシュー・ブリットン率いるキャップストーン・インベストメント・アドバイザーズを取り上げました。今回はブリットンに多大な影響を与え、キャップストーンを創設させるきっかけとなったティンバー・ヒル・グループ(現在のインタラクティブ・ブローカーズ・グループ)及び、その創設者であるトーマス・ピーターフィー(Thomas Peterffy)を紹介します。ピーターフィーは世界の株式とオプションの取引方法に大きな影響を与え、電子取引所の隆盛を加速させたことから、後に電子取引のパイオニアと呼ばれました。また、株式の取引方法を自動化するアルゴリズム取引の基礎を築くことにも貢献しています。その努力が実り、彼は米金融界で屈指の大富豪となりました。
 

◆共産主義国生まれ


 ピーターフィーの祖国であるハンガリーはかつてのソビエト連邦の衛星国でしたが、第二次世界大戦中は日独伊と共に、米ソ中英仏などの連合国と戦っていました。しかし、1944年にソビエト連邦の占領統治を受けることになります。この年にピーターフィーは戦禍を避けるようにして病院の地下室で誕生します。元々は貴族の家柄であり戦前は非常に裕福な家庭でしたが、戦後に財産をソ連に没収されたといいます。彼は高校時代に当時は密輸品であった米国製のガムを友達に5倍の価格で売って小遣い稼ぎをしていました。しかし、共産主義国に将来を見出せなかった彼は、1956年のハンガリー動乱で米国に亡命した父親を頼って、1965年に渡米します。もっとも、父親も彼を居候させる余裕はなく、自分で何とかするようにと100ドルだけ渡されたとのことです。

 ピーターフィーはニューヨークで、父親の友人の子供と部屋をシェアしながらニューヨーク大学に通いますが、英語が話せなかったこともあってか中退してしまいます。その後にクラーク大学で学士の資格を取得しました。タクシードライバーなどを経て、卒業後はエンジニアリング会社で仕事を見つけます。ハンガリー時代に工学の勉強していたことがあり、高速道路を設計する製図技師として働きますが、この仕事はあまりお金になりません。ところが、この会社が新しいコンピュータを購入し、そのプログラミング方法をマスターする志願者を募ると、ピーターフィーはすぐに名乗りを上げます。彼にしてみれば、コンピュータ言語は英語よりも学ぶのが簡単だったといいます。そして、コンピュータのプログラミングを身に着ければ、もっと報酬の高い仕事が見つかることに気づき、マニュアルを睨みながら独学で勉強するようになりました。

 1967 年にピーターフィーは、ハンガリー移民のヤノス・アラニーが経営するコンピュータ・コンサルティング会社、アラニー・アソシエイツに転職します。そこでは金融機関向けに初期の財務モデリング・ソフトウェアを設計していました。1983年に表計算ソフトのロータス1-2-3が誕生しますが、この製品が世に現れる前であったにもかかわらず、彼はアナリストが株式や債券の評価を計算するためのツールを自身で構築しています。

 その数年後、ピーターフィーは商品取引会社モカッタ・メタルズに転職しました。モカッタは1684年に創設された地金ディーラー兼精製業者のモカッタ・ブリオンを起源とする歴史と権威のある会社でした。国際的な金現物取引における指標価格は、2015年までロンドン金市場のフィキシング(値決め)によって決められていましたが、モカッタはフィキシング・メンバー5社のうちの1社です(モカッタは1997年にカナダのスコシア銀行の傘下となった後、マネー・ロンダリングや価格操作など、様々な問題が災いして2020年に閉鎖となりました)。

 ピーターフィーはモカッタで、ヘンリー・ジョージ・ジャレッキという有名なハンガリー人の金属トレーダーから様々なことを学びます。ジャレッキは元々イェール大学医学部で教鞭をとる精神科医という異色の経歴の持ち主で、当時はモカッタの経営にも関与しており、後に同社の会長に就任しました。そのジャレッキからプログラミングの前に、まずは商品取引の方法を学べということで取引所に連れて行かれ、商品取引の仕組みをみっちりと教えられたそうです。そして、商品取引を学んだピーターフィーは、ジャレッキのために取引やマーケット分析のためのプログラムを開発していきます。

 

◆オプションの適正価格計算モデルを開発


 ピーターフィーはモカッタで研究を重ね、1969年にオプションの適正価格を計算するモデルを開発しました。このモデルは1973年に発表されたブラックショールズ・モデルと大きく異なるものではなかったのですが、それまではオプションの適正価格を知っているのは彼だけ、ということになります。1977年にアメリカ証券取引所(2008年にニューヨーク証券取引所ユーロネクストに買収され、現在はインターコンチネンタル取引所ICEの傘下)の座席(シート)を購入し、オプションのマーケット・メイカーとして独立しました。マーケット・メイカーとは、市場に流動性を供給する値付け業者のことです。マーケット・メイカーとして取引をするには、取引所に登録料を支払う必要があり、これを「シートを買う」と表現します。このシートは分割したり、貸し出したりすることが可能です。

 ピーターフィーは自ら編み出したオプションの適正価格表を利用して取引をする最初のマーケット・メイカーとなりました。取引の利益はわずかですが、回数をこなせば稼ぎは順調に積み上がり、1978年にTPアンド・カンパニーという会社を設立します。1982年には同社をティンバー・ヒルという会社に再編しました。この社名はニューヨーク州北部にある彼のお気に入りの隠れ家に続く道路に因んで名づけられました。適正価格表は当初、ピーターフィーのオフィスからフロア(取引が行われる立会場)にいるトレーダーに届けさせていましたが、その作業を省くため携帯端末を開発します。ところが、これが大きな問題となりました。一体何があったのでしょうか。(敬称略、中編につづく)

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。