タートルズのリチャード・デニス(前編)ーデリバティブを奏でる男たち【49】―

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◆トレーダー気質


 前回は1990年代におけるヘッジファンド業界の「ジュニア3」の一人に数えられた、チューダー・インベストメント・コーポレーションを率いるポール・チューダー・ジョーンズ二世(通称ポール・チューダー・ジョーンズ、PTJ)を取り上げました。今回はジョーンズが在学中、その言葉に感銘してトレーダーを目指すきっかけとなったリチャード・J・デニスを紹介します。

▼元コットン・カウボーイのポール・チューダー・ジョーンズ(前編)―デリバティブを奏でる男たち【48】
https://fu.minkabu.jp/column/1836

▼元コットン・カウボーイのポール・チューダー・ジョーンズ(後編)―デリバティブを奏でる男たち【48】
https://fu.minkabu.jp/column/1842

 デニスは1949年に米イリノイ州シカゴで、アイルランド系カトリック教徒の家庭に生まれました。17歳のときにマーカンタイル取引所でオーダーランナー(使い走り)のアルバイトを始めます。このときトレーダーとして取引をしたかったのですが、21歳以上でなければ認められなかったため、父親に頼んで代わりにトレードしてもらっていたようです。

 その後、デポール大学で哲学を専攻。経験主義の流れを汲む18世紀の英国哲学者、デイヴィッド・ヒュームやジョン・ロックなどに魅了されていきます。この経験主義とは、「人間の全ての知識は我々の経験に由来する」とする哲学上、または心理学上の立場ですが、この思想が後のデニスに大きな影響を与えたと考えられます。特に懐疑論者でもあるヒュームの考え方は彼の心に響いたようで、「世間一般で言われていることを鵜呑みにしてはいけない」というマーケット的な発想につながっていったのではないでしょうか。

 大学卒業後、デニスはチューレーン大学の大学院で奨学生となりましたが、どうしてもトレードを行いたくて、ほどなく大学院を中退。1970年に家族から借金をしてミッドアメリカン商品取引所(MIDAM、2004年にシカゴ商品取引所が買収)の会員権を取得し、トレードで生計を立てていくことを決心しました。そして、24歳で10万ドルを稼ぎ、25歳で億万長者の仲間入りを果たします。

 彼のトレード・スタイルは、ピット(立会場)のトレーダーとは全く異なっていました。ピットでは1カイ・2ヤリ(売りのこと)の短期値幅取りといったスカルピング(頭の皮ほど薄い値幅の売買)が当たり前だったようです。余談ですが、兜町の古い証券マンは、こうしたトレーダーを板の上で取引する様から「カマボコ屋」などといっていました。しかし、デニスのトレード・スタイルは、シーズナル・スプレッドといわれる季節ごとに異なった値動きをする商品のロング・ショート戦略をよく行い、評価損益の状態などによってポジションのサイズを変える、あるいは積み上げるといったものでした。
 

◆ピットのプリンス


 もっとも、最初から上手くトレードができたわけではありません。あるときは過剰にリスクを取り過ぎて失敗し、パニックになって底値で売ってしまう、といった失態を演じたこともありました。このときわずか2時間でトレード資金の4分の1を吹き飛ばしてしまい、立ち直るのに3日もかかったそうです。この経験から「トレードには失敗に耐えられる強い精神が必要である」といった知識も身に着けます。また稼げるようになると、若手のトレーダーを集めてトレードの基本を教える、といったことも行っていました。

 稼ぎが大きくなると、次第に活躍する舞台を取引サイズの小さいミッドアメリカン取引所から、当時、世界最大の先物取引所であったシカゴ商品取引所(CBOT、Chicago Board of Trade)へと移します。その後は商品取引所のピットを去り、株式市場や為替市場のトレードも行うようになりました。

 1975年にはトレーダー仲間のラリー・キャロルとともにC&Dコモディティーズという投資会社を立ち上げます。その社名の由来が彼らの苗字にあることは言うまでもありません。当時「ピットのプリンス」といわれたデニスですが、ピットを去っても大口の注文を出していたことから、「金持ちの歯医者(rich dentist、つまりリチャード・デニスの隠語)」などともいわれていました。もっとも1980年代になると、彼らの投資会社には資金が集まり過ぎて、次第に運用が難しくなっていきます。加えて、デニスの投資スタイルは元より運用成績が激しく乱高下することが多く、これに恐れをなして運用資金が逃げ出すといった事態にもなりました。
 

◆タートルズ養成


 ところが、そんな状態の1983年と1984年にデニスは、高校以来の友人でトレーダー仲間のウィリアム・エックハート(通称ビル・エックハート)と、とんでもない実験を始めます。エックハートは、シカゴ大学で数学の修士号を取得し、同大学の数理論理学の博士課程で4年間も研究するなど数学に秀でた才能があり、C&Dコモディティーズのパートナーとして、様々なテクニカル・トレーディング・システムを開発していました。1991年に独自の商品投資顧問(CTA)であるエックハート・トレーディング・カンパニー(ETC)を立ち上げています。そのエックハートとデニスが始めた実験とは、優秀なトレーダーを養成することでした。

 C&Dコモディティーズは1.5万ドルの予算を割いて、ウォール・ストリート・ジャーナル、バロンズ、そしてインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(現在のインターナショナル・ニューヨーク・タイムズ)に、商品先物トレーダーの候補生の募集広告を打ちます。候補生は卒業後、講義内容について守秘義務を負う一方で100万ドルが与えられ、運用利益の15%が得られることになっていました。こうした前代未聞の募集に1000人を超す応募があり、簡単な〇×の筆記試験と面接試験が行われ、最終的には多種多様な10名程度の候補生が選ばれます。

 この実験の候補生は「タートルズ(亀)」と呼ばれていました。デニスがシンガポールの養殖場を訪れた際、樽の中でひしめき合う亀をみて、この亀のようなトレーダーを養成してみたい、と考えたのがその由来といわれています。また、この実験については1983年に公開されたジョン・ランディス監督の映画『Trading Places(邦題:大逆転)』によく似ているといわれていますが、デニス自身はこれを否定しています。(敬称略、後編につづく)
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。