デリバティブを奏でる男たち【55】 元株式仲買人の経済学者リカード(後編)

ブックマーク

◆戦時下におけるリカードのビジネス


 今回は近代経済学の創始者であり、英国古典経済学の泰斗として讃えられ、『経済学および課税の原理』(1817年初版)の著者としても有名なリカードを取り上げています。

 彼の本業がジョバー(取引場内の仲買人)であったことを知っている市場関係者は多くないと思われます。リカードが生きた当時の欧州は混乱の時代でした。1789年にフランス革命が起こり、その波及とナポレオンによる支配を恐れた大陸諸国と英国は対仏同盟を締結。1793年には英仏間で戦争が始まります。その数カ月前にリカードは、証券取引所で自分のビジネスを始めました。そして、1815年にエルバ島を脱出しパリに帰還したナポレオンが、ベルギーのワーテルローの戦いで英国のウェリントン将軍指揮下の諸国連合軍に敗北したとき、リカードは引退を決めています。ということは、彼のビジネス・キャリアのほぼ全ての期間において、イギリスとフランスは戦争状態にありました。
 
 リカードのビジネスはジョバー(取引場内の仲買人)でした。これは、流動性を供給しながら自己売買を行うマーケット・メーカーといったところでしょうか。前編で、「リカードは『損切りは早くせよ』『利益を継続させよ』というルールに細心の注意を払い、巨万の富を築いた」というジェームス・グラント(1802-1879)の『ザ・グレート・メトロポリス』(1838)の一節を紹介しました。

 マーケット・メーカーであればスカルピング(短期売買)に徹することになりますので、「損切りは早くせよ」は当てはまりますが、「利益を継続させよ」は当てはまりません。事実、彼は友人から「どうやってこれだけの富を築いたのか」と問われたとき、「小さな利益が得られるときに、いずれはもっと高い利益が得られるという根拠のない期待を抱いて、自分の手元にある商品や製品を長く持ち続けないことである」と答えたそうです。これに沿うよう、彼は日々大量の売買を繰り返したという記録が残っており、そうして少ない利益を積み上げていったと考えられます。もっとも、利益は順調に積み上がっていったようで、独立した2年後の1795年には既に裕福な生活ができるほど稼げるようになっており、その資産は義理の兄の財政的な問題を解決するほどでした。
 
 また当時の英国政府は、対仏戦争の戦費や大陸側同盟国への支援などで莫大な資金を調達するために大量の国債を発行しており、ロンドン証券取引所では株式よりも英国債の売買が主流だったようです。なかでも人気があったのが、利回り3%のコンソル債(償還期限のない永久債)でした。当時の英国債は直接売りに出されるわけではなく、特定の公債引受人が落札し、契約者に対して分売されるという仕組みでした。この特定の公債引受人とは、莫大な資金を所有するゴールドスミスやベアリングなどの大銀行家や商人です。ただ、彼らによって支配された英国債の分売方法を巡っては、取引所の一般会員から不満がもれるほど不公平だったようです。この状況を改善しようとして数人の会員が共同事業体(コンソーシアム)を結成して入札に参加するようになりました。そのうちの一人がリカードです。1806年にコンソーシアムとして初めて入札に参加、その後7つの大きな英国債入札(1807年、1811年、1812年、1813年6月、1813年11月、1814年、1815年)と小さなアイルランド国債入札(1807年)を落札しています。

 

◆100万ポンドの利益を手にした男!?


 この中で特に1815年の落札が注目されます。この年、冒頭でも触れたようにナポレオンが、ベルギーのワーテルローの戦いで諸国連合軍に敗北しました。この情報をいち早く得たリカードは、100万ポンドの英国債を落札し、暴騰したところを売り抜けて100万ポンドの利益を手にしたといわれています。ただ、この100万ポンドの利益話の元となっている資料のひとつとして、リカードが亡くなった時のサンデー・タイムズ紙に掲載された死亡記事がよく引用されるのですが、そこにはリカードが一家の長男である(実際には3男)とか、年齢は53歳だった(実際には51歳)など、誤った記載も散見される信ぴょう性の薄いものでした。

 また2020年の研究論文では、当時に従業員を一人しか雇っていなかったリカードが、戦況をいち早く入手するといった特別な情報網を持っていた、と考えるのは不自然であるとの指摘もあります。更に100万ポンドの英国債を仕込んで100万ポンドの利益を手にしたのであれば、その8年後に亡くなった彼の遺産も莫大なものになるはずでしょう。しかし、実際には数十万ポンドだったと推定されており、残っている詳細な記録にはそれに見合う膨大な資金流出は認められなかった、と同論文は指摘しています。
 
 このときに100万ポンドを手にしたとの噂は、彼だけでなくロンドン・ロスチャイルド家の祖といわれるユダヤの大富豪、ネイサン・メイヤー・ロスチャイルド(1777-1836)にもありました。当時の欧州で最も優れた情報ネットワークを誇り、洗練された金融ビジネスを運営していたロスチャイルドならば有り得る話ですが、その噂すらも信ぴょう性を欠くといわれています。なぜならば、イングランド銀行の記録によると、ロスチャイルドが本格的に英国債の売買を行ったのはワーテルローの戦いの3カ月後でした。また、このロスチャイルドの噂で多く読まれた小冊子は、1846年に反ユダヤ主義者によって書かれたものでしたので、割り引いて考える必要がありそうです。

 そして、何より決定的だったのは、ワーテルローの戦いでナポレオンが敗北した直後のコンソル債の価格で、投資資金が2倍になるほどの急騰が確認されなかったことです。この頃は、今で言うフェイク・ニュースによってマーケットが頻繁に乱高下しており、1729年から1959年までの230年間において、コンソル債の月間変動率のトップ10とワースト10のうち、5つがナポレオン戦争の期間に起きていたほどでした。ワーテルローの戦いにおける結果が正式に発表される2日前にもナポレオン敗北との観測記事が流れますが、マーケットはあまり反応しませんでした。そして、正式発表があった後も、エルバ島を脱出したナポレオンが生きている限りは油断ならない、との見方が大勢を占めていたようです。

 このようにワーテルローの戦いで100万ポンドの利益を手にした噂は、リカードにしてもロスチャイルドにしても、相当に歪んだ話とみるべきでしょう。コンソル債の値動きを見る限り、1813年の方が1815年より大きく値上がりしており、むしろ1813年に落札した英国債がリカードに大きな利益をもたらしたと考えた方が良さそうです。引退後のリカードは経済学者として執筆に専念するほか、政治家としても活躍することが多かったといわれています。(敬称略)

 

 

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。