デリバティブを奏でる男たち【55】 元株式仲買人の経済学者リカード(前編)

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◆“3大ルール”に細心の注意


 前回は、マネージド・フューチャーズ・ファンドを運営する英国の著名なCTA (Commodity Trading Advisor、商品投資顧問)、ウィントン・グループを取り上げ、創設者であるデイビッド・ウィントン・ハーディング卿が魅了されたトレンド・フォロー戦略の有効性についても触れました。
 同戦略の基本となるルールに「損切りは早くせよ」「利益を継続させよ」という考え方があります。日本の相場格言でいえば「利食い急ぐな、損急げ」といったところでしょうか。このルールの歴史は古く、今から200年以上も前から語り継がれているようです。例えば、英国の新聞記者だったジェームス・グラント(1802-1879)は、その著書『ザ・グレート・メトロポリス』(1838)第2巻のなかで、この基本となるルールに、「オプションを獲得できるときは絶対に拒否しない」を加えた“3大ルール”に細心の注意を払って巨万の富を築いたのが、英国の著名な経済学者であるデヴィッド・リカード(1772-1823)だとしています。

 近代経済学の創始者であり、古典経済学の泰斗として讃えられ、『経済学および課税の原理』(1817年初版)の著者としても有名なリカードは、元から博識な経済学者だったというわけではありませんでした。学校も14歳までしか行っていません。それでも経済学史に名を残すほどの人物となったわけですが、彼の本業がジョバー(取引場内の仲買人)であったことを知っている市場関係者は多くないと思われます。

 

◆父親も市場関係者


 彼は18 世紀初頭の迫害からオランダに逃れたポルトガル系ユダヤ人の子孫でした。父親であるエイブラハム・リカードは、アムステルダムの株式仲買人であり、顧客の代理で英国の資金をトレードするため、1760年にロンドンへ移住します。エイブラハムはそこで、当時12社あったユダヤ系証券会社のひとつを所有するほどの成功を収めます。そして、エイブラハムの3男として生まれたのがデヴィッドです。デヴィッドは1783年にアムステルダムの学校へ行くため叔父の家に預けられるまでは、英国で普通教育を受けていたといわれています。14歳で帰国した後は父親の仕事をフルタイムで手伝うことになり、ロンドン証券取引所で働きながら、一人前に独立できるだけの証券知識やトレードの腕を身につけたようです。一方で、教養のない父親に反発し、仕事の傍ら数学や化学、地学、鉱物学などの研究に没頭するといった一面もありました。

 そして、21歳の時にキリスト教徒の娘と駆け落ちを決意します。加えて、両親の意に背いてユダヤ教からキリスト教に改宗したため、家族とも訣別することになりました。これは成功した父親の莫大な遺産を放棄することを意味する決断でもあったのです。後に和解して相続を果たしますが、その金額は50ポンドとわずかでした。これは父親が没落したわけでも、和解が不十分だったわけでもありません。その頃のデヴィッドはジョバーとして大成功を収めていましたので、多くを相続する必要がなかったためだった、といわれています。

 

◆独立後の成功


 結婚を機に父親の仕事からも離れて独立することになりましたが、ビジネスではユダヤ商人の教えをよく守り、きわめて有能かつ堅実に働いていたデヴィッドは、ロンドンで高い評価を得ていたようです。知人だった著名な銀行家の助けを借りて英国債引き受けの仕事も立ち上げました。27歳のときには中堅業者として認められ、株式取引所の改組のための委員にも推されました。また、妻の療養のために訪れたロンドンの西に位置するバースで、アダム・スミスの主著である『国富論』(1776)を読み、それ以後は経済学の研究に勤しむようになります。1809年には『モーニング・クロニクル』誌に匿名で寄稿したエッセイ「金の価格」が有名な地金論争へと発展します。

 当時の英国は欧州大陸の列強に先駆けて産業革命による工業化が進展しており、これを背景にナポレオン率いるフランスと戦争をしていました。その戦費や大陸側同盟国への支援などが嵩み、イングランド銀行が保有している金準備が大量に海外へ流出。加えて地方銀行の破綻を機に国内でも金流出が起こり、ポンドも下落します。そこで1797年にイングランド銀行は金本位制を停止してしまいました。停止後に金価格は上昇、ポンドはさらに下落して、英国内ではインフレが激しくなります。この状況にあってリカードは、金価格の上昇、インフレ、ポンド下落の主因が、金本位制停止の最中に実施された銀行券の大量発行であるとし、すぐに金本位制を再開すべきと主張しました。

 この論争を通じて彼は、インド植民地行政官のバイブルとされた『英国領インド史』の著者であるジェームズ・ミル(1773-1836)や『人口論』で有名な古典派経済学派のトマス・ロバート・マルサス(1766-1834)といった当時の一流の経済学者と親交を深めるようになり、ミルに勧められて『経済学および課税の原理』をまとめます。

 その一方で、1807年には共同事業体(コンソーシアム)を通じて英国債の入札を勝ち取り、その後も幾度か英国債を引き受けて大きく稼ぎました。また、1815 年にナポレオン戦争が終結すると、政府証券の価値が上昇したことで更に儲かったので、事業を縮小して田舎での隠居生活を満喫します。1819年に再び政府融資の入札に参加しますが、同じユダヤ系のロスチャイルドに負けたことから引退。その後は亡くなるまで政治活動に力を入れるようになります。では、彼がどのようなトレードで財を成していったのか、その辺を後編で見ていきたいと思います。(敬称略、後編につづく)

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。