デリバティブを奏でる男たち【56】 偉大なる投機家経済学者ケインズ(後編)

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◆積極的投資政策を展開


 今回は経済学者であり、「雇用・利子および貨幣の一般理論」(1936)を著したケインズ経済学の創始者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)を取り上げています。彼は第1次世界大戦後のパリ講和会議に英大蔵省の首席代表として出席しました。しかし、対独賠償交渉があまりに不当で、非現実的であることに愛想をつかし、1919年に退官を決断します。その後は民間企業で働きますが、元大蔵省という肩書が持てはやされ、複数の保険会社で役員として働くことになりました。

 そのひとつが、英ナショナル・ミューチュアル生命保険協会(2002年に株式会社化し、GEキャピタルへ事業譲渡)です。1921年に入社し、同年から1938年まで会長を務めました。ケインズの影響力は絶大でした。例えば、同社の年次総会における彼の演説は、保険会社の投資に関する新しい理論に加え、当面の経済諸問題にも及び、その内容は翌日の新聞に大きく取り上げられ、金融マーケットを動かすほどだった、といわれています。

 この投資に関する新しい理論とは、積極的な投資政策です。同社に限らず当時の保険業界では、国債と植民地債、海外国債などの確定利付債券、あるいは不動産担保ローンや不動産投資、コール市場での運用といった極めて保守的な運用スタイルが定石であり、株式投資は全資産の2~3%にとどまっていました。しかし、ケインズは経済学者として知識と経験を活かし、景気と金利の動向を見極めながら弾力的にポートフォリオを入れ替えることを提唱。また、株式投資のウェイトを2割以上と大きく高めました。これが奏功し、ケインズの積極的投資政策は業界の標準となっていきました。

 

◆投資会社は失敗


 ケインズの金融界での仕事について語る際、どうしても外せない人物がオズワルド・トインビー・フォーク(1879-1972、通称フォクシー)です。オックス・フォード大学を卒業した彼はナショナル・ミューチュアル生命保険協会のアクチュアリー(保険計理人)として、また英証券会社バックマスター&ムーア(1987年にクレディ・スイス・グループが買収)のパートナーとして働き、ケインズからの注文を受けていました。ケインズはフォークの能力を高く評価し、ケインズが所属していた大蔵省の国際金融問題を担当するセクション、Aディビィジョンにフォークを招き入れて、第1次世界大戦後のパリ講和会議でも一緒に働いています。

 また、フォークもケインズの才能を高く評価し、自分が役員となったナショナル・ミューチュアル生命保険協会において、ケインズが大蔵省を退官した後に同社の役員となるよう仲立ちをしました。もっとも、投資方針に関しては互いに譲らず、後に大きな確執を生みます。
 
 ケインズとフォークは、ともに幾つかの投資会社の設立・運営にも関わりました。例えば1921年に大蔵省時代の仲間とA.D投資信託(大蔵省のAディビィジョンが由来)という小さな投資会社を設立。加えて、商品先物での投機を主要業務とするPRファイナンス(ギリシャ語で「万物流転」を意味するパンタ・レイの頭文字が由来)やインディペンデントという仲間同士の投資会社も設立しています。

 ところが、いずれも1929年の世界恐慌の影響で運用に失敗。A.D投資信託は破綻、PRファイナンスはフォークと決裂した後、ケインズによる運用成績の回復などにより、大きな損失を穴埋めして自己清算しました。インディペンデントに至っては全資本を失って、やはりケインズとフォークが対立。両者とも経営から退き、英商業銀行のヘルベルト・ワッグ(1962年に英資産運用グループのシュローダーが買収)に経営が移管されています。

 

◆ケインズの投資哲学


 また、2人の確執はナショナル・ミューチュアル生命保険協会にもおよび、ケインズは会長職を退任せざるを得ませんでした。しかし、ケインズは1923年に英プロヴィンシャル損害保険(1994年に仏パリ保険組合が買収、仏パリ保険組合は1996年に仏保険・金融グループのアクサが買収)の取締役にも就任しています。ここでもフォークと一緒でしたが、フォークが仕事の都合で退任したため、ほぼ完全な独自裁量のもとで同社の資産運用アドバイスを行い、亡くなるまで役員を続けました。そのほか、1919年に大蔵省を退官した後、母校のキングス・カレッジにて経済学の講師をする傍ら、大学の財務および会計を運営する副会計官にも就任。大学の基金を運営し、後に正会計官となります。ここでもケインズは積極的投資政策を展開。同校の基金を3万ポンドから38万ポンドに増やしました。
 
 このようにフォークなどとの意見対立のない職場において、ケインズは自らの投資哲学に基づき、持てる能力を遺憾なく発揮したようです。そのケインズは1930年前後の米国株式投資をカジノのババ抜きや椅子取りゲームに例えています。このゲームの参加者は誰かがババを持っていることを知り、音楽が終わったときに全員が座る椅子がなくなるかもしれないことを知っているにもかかわらず、自分だけはババをつかまず、自分だけは椅子に座れると確信しながらゲームに興じています。しかし実際は、多くの参加者がババをつかみ、椅子に座ることはできません。そして、わずかな勝者だけが大金をつかみ、多くの敗者は大金を失ってカジノを去るのです。

 こうした投機的な株式投資において、ケインズが銘柄選びのコツを美人投票に例えたのはあまりにも有名な話です。つまり、自分が最も美しいと思う人を選ぶのでなく、大多数が平均して最も美しいと考える人を選ばなければならない、ということですが、その平均的な意見が時間の経過とともに変化する点は悩ましいところです。もっとも、今の日本においても多くの市場参加者が日々、平均的な意見(有望銘柄)を求めているとすれば、それは100年前の投機的な株式投資と大差はない、といえるでしょう。(敬称略)

 

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。