デリバティブを奏でる男たち【66】 10サプライズのバイロン・ウィーン(前編)

ブックマーク

 今回は2023年10月に90歳で、その生涯を閉じたブラックストーン・アドバイザリー・パートナーズの副会長、バイロン・リチャード・ウィーン(通称バイロン・ウィーン、1933-2023)を取り上げます。

 ウィーンは毎年「The Ten Surprises (10サプライズ)」と称する、マーケットのびっくり10大予測レポートを発表しており、それがウォール街の年始の風物詩になるほど著名な投資ストラテジストでした。この「10サプライズ」は日本でもよく知られており、一時は彼の後を追って「○○10大予想」などと、似たようなレポートが散見されたほどです。また、日本ではあまり知られていませんが、毎月発表する戦略エッセイも人気となり、彼はその名声を確立していきました。
 

◆ちょっと変わり者の中流ユダヤ人の子供


 自らを「ちょっと変わり者の中流ユダヤ人の子供」と表現したウィーンの幼少時代は、波乱万丈だったようです。ウィーンは1933年にシカゴで生まれ、9歳のときに医師であった父を亡くしています。母親も彼が14歳のときに亡くなっており、1950年に高校を卒業するまで母親の妹に育てられたそうです。

 あるとき進路指導カウンセラーから彼は、ハーバード大学が私立学校の入学者とのバランスをとるために公立学校の賢い生徒を探しており、訪問入学担当官との面接に学生を1人要求している、と告げられます。「それが私の人生を変えた」とウィーンは後に語っています。首尾よくハーバード大学に入学したウィーンは、物理学と化学を専攻。学士号を取得した後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBA(Master of Business Administration、経営学修士号)を取得しました。

 大学を卒業した後はシカゴの広告代理店で働いていましたが、あまり好きな仕事ではなかったとのこと。その後2年間は米陸軍に勤務し、次にコンサルティングの仕事でナイジェリアに赴任します。このときに旅行の重要性を悟り、発展途上国への関心を生涯持ち続けることになりました。

 そして、1965年にハーバード・ビジネス・スクール時代の同級生から投資管理会社の仕事を紹介されます。彼はアナリストになるための訓練を受けていなかったため、最初は上手くいかずに解雇されそうになったのですが、次第に力をつけてアナリストからポートフォリオ・マネージャーになり、最終的には会社の共同経営者(パートナー)に上り詰めました。その会社がワイス・ペック・アンド・グリア・インベストメンツです。

 この会社は、年金コンサルティング事業のパイオニアといわれている米投資銀行A.G.ベッカー(1893年にエイブラハム・ガミエル・ベッカーが創設、1984年にメリルリンチが買収。メリルリンチは2009年にバンク・オブ・アメリカが救済合併)で副社長を務めていたスティーブン・ヘンリー・ワイス(1935-2008)と、彼の弟であるロジャー・J・ワイス、後にニューヨーク証券取引所の副会長に就任するスティーブン・マーティン・ペック(1935-2004)、そしてグリア・アンダーソン・キャピタルの創設者であり、ロックフェラー・キャピタル・マネジメントの上級顧問であるフィリップ・グリアの4人が1970年に共同設立したユダヤ系の会社でした。1998年にオランダ第3位の銀行であるラボバンクが50%出資しているファンド管理会社ロベコ・グループが同社を買収しています。このときのワイス・ペック・アンド・グリアの運用資産は160億ドルにも膨らんでいました。

 

◆モルガン・スタンレーにて10サプライズ


 1985年にウィーンは20年間務めたワイス・ペック・アンド・グリアを辞め、米投資銀行のモルガン・スタンレーに移籍します。このときウィーンは第4回で取り上げたモルガン・スタンレーのチーフ・グローバル・ストラテジスト、バートン・マイケル・ビッグス(通称バートン・ビッグス、1932-2012)から、モルガン・スタンレーの経営陣が米国の投資戦略を率いるのに最適な人物であると判断した、と告げられたそうです。後にビッグスからそのセリフを持ちかけられたのは、ウィーンで7人目だったことが判明。それでもウィーンは、この仕事に就くことができて幸せだった、といいます。ところが、任務は簡単ではなく、彼は「モルガン・スタンレーで11回解雇された」と語るほどでした。ビッグスについては以下をご参照ください。

▼モルガン・スタンレーのバートン・ビッグス(前編)―デリバティブを奏でる男たち【4】
https://fu.minkabu.jp/column/985

 モルガン・スタンレーで米株のチーフ投資ストラテジストとして働き始めたウィーンは、入社の翌年から年始にちょっと変わった見通しを発表するようになりました。それが冒頭で触れた「10サプライズ」です。これは単に奇をてらったびっくり予想ではなく、平均的な投資家であれば起こる確率は3分の1程度であっても、彼にとっては50%以上の確率で起こり得ると考える10項目の予測でした。その項目は自らが担当する米株式市場のみならず、債券市場や為替市場、欧州、中国、日本、新興国の株式市場に加え、米国を中心に様々な国の経済や金融政策、そして政治やマーケットを動かすあらゆるテーマに至るまで多岐にわたります。もっとも毎年、「10」 に入らないが、どうしても触れておきたいサプライズが常にいくつかあり、それらは「Also Rans(等外項目、もともとは競馬用語で3位入賞を果たせなかった馬という意味)」として列挙されていました。

 かような定義に沿った予測なので、提示される内容は当然の如くコンセンサス(まとまった意見)からかけ離れていますが、付和雷同で周りに流される傾向の強い市場参加者にとっては非常に新鮮だったらしく人気を博します。ところが、このレポートは一部の人たち、特に勤務先や家族といった身内からの評判は非常に悪かったようです。一体どういう点が問題だったのでしょうか。(敬称略、後編につづく)

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。