モルガン・スタンレーのバートン・ビッグス(前編)―デリバティブを奏でる男たち【4】―

ブックマーク

◆銀のスプーン、投資家としての英才教育


 第4回は、前回の主役であったスタンレー・ドラッケンミラーの義理の叔父にあたるとともに、第2回で紹介したジュリアン・ロバートソンのタイガー・マネジメントにおいて取締役を務めたバートン・マイケル・ビッグスについて取り上げます。バートン・ビッグスは米大手投資銀行モルガン・スタンレーに30年間も在籍し、同社の調査部門と投資部門の設立に携わったチーフ・グローバル・ストラテジストとして知られています。彼は2012年7月に享年79歳で亡くなりました。

 西洋では「銀のスプーンを口にくわえて生まれてきた」といえば、それは裕福な家柄の生まれを意味します。彼は投資に関しては、自分はそう思われても仕方ないかもしれない、と自らの著書に記しています。なぜならば、彼の父は米ニューヨーク銀行の運用部門の責任者であり、多くの企業で取締役会のメンバーを務めたほか、非常に成功した投資家でもあったからです。

 そして、彼が18歳になると、15銘柄ほどの株式で構成された15万ドル相当のポートフォリオが与えられ、それについて勉強し、質問するように言われたそうです。この点は、小学生の時に大学卒業までの小遣いとして100万円を父親から与えられた村上ファンドの村上世彰氏と重なる部分があるかもしれません。

 また、ビッグスが投資家になりたいと父に伝えると、ベンジャミン・グレアムとデビッド・ドッドによるバリュー株投資のバイブル『証券分析』を隅から隅まで読め、話はそれからだと言われたとか。そして、その教えに従ってボロボロになるまで読み込んだ本を手に父のところへ行くと、新しい同著を渡されて「もう一回」と命じられたそうです。このようにして、彼は優れた投資家にとって必須の資質となる、厳しく、真摯に投資に向き合う姿勢を学んでいきます。
 

◆アナリストを経てヘッジファンドを設立


 彼の父親は、当時の米連邦準備制度理事会(FRB)議長を自宅の夕食に招待するなど、金融業界の重鎮と親しかったとされます。ビッグスはイェール大学を卒業し、兵役を終えた後に、父の親友が会長を務める米国の老舗ブローカーであるEFハットンにアナリストとして就職します。1961年のことです。

 そして、父親の大学の1年後輩で「ヘッジファンドの生みの親」と言われるアルフレッド・ウィンスロー・ジョーンズに銘柄を紹介することで多額の注文をもらい、入社して4年でハットンの共同経営者(パートナー)へと昇進します。ところが、銘柄のピックアップがあまりにも上手すぎたため、ジョーンズから自分の会社に入るよう強く求められます。もちろん、断ればハットンが得ていた多額の注文はなくなってしまいます。

 困ったビッグスは、大学の先輩でジョーンズのポートフォリオ・マネージャーであるリチャード・ワーナー・ラドクリフに相談しました。そして、二人でファンドを設立しようとの結論に至り、1965年6月にフェアフィールド・パートナーズを設立します。運用資産はおよそ1000万ドルで、運用スタイルは株式のロング・ショートでしたが、そのスタートは決して幸運に恵まれていたといえるものではありませんでした。運用を開始して僅か20日目にして評価損は10%にも膨らんでしまいます。

 「自分はもう終わりだ」と覚悟したビッグスでしたが、その後にロング・ショートが上手く機能して、ファンドは盛り返します。初年度は結局55%のパフォーマンスを叩き出し、その後3年間は成功が続き、運用資産は5000万ドルにも膨れ上がったのです。

 しかし、1960年代後半から1970年代初めまで米国株は一進一退となり、1970年代前半には長く下落相場が続きます。この頃、単にレバレッジを効かせただけのロング・オンリーといった投資スタイルを取っていたヘッジファンドの多くは炎上し、消えていくことになります。フェアフィールドは苦戦はしたものの、ロング・ショートで何とか持ちこたえることができたようです。

 1973年にビッグスは、フェアフィールドのプライム・ブローカーであるモルガン・スタンレーからパートナーの誘いを受けます。プライム・ブローカーとは、ヘッジファンドに対して手数料の見返りとして、信用取引のための資金や株券の調達、資産や簡単なリスクの管理、取引の決済や運用資産の調達支援など、さまざまなサポートを行う金融機関のことです。

 当時のモルガン・スタンレーは決して大きな金融機関ではなく、調査部門と機関投資家向けの営業部門を強化しようと考えていたようです。そこでビッグスをパートナーに引き入れて、調査部門と投資部門を立ち上げようとしていました。

 このときビッグスはフェアフィールドでの運用がなかなか上手くいかず、胃に大きな穴が開いたのではないかと思うほど悩んでいたため、喜んで申し出を引き受けます。1973年5月のことでした。モルガン・スタンレーの調査部門と投資部門の設立に携わったビッグスは、その後、30年間にわたり同社のチーフ・グローバル・ストラテジストを務めます。特に一躍その名が知れ渡るきっかけとなったのが、1990年の日本のバブル崩壊や1990年代後半のITバブルを予測し、的中させたことでした。
 

◆デリバティブに対するビッグスの見解


 ビッグスはデリバティブについて、「どれくらい危険なものなのか誰も分からないが、その巨大な残高の中身が外部からは見え難く、おそらく内部からもよく見えていないことを誰もが知っている」、そして「デリバティブは特定のリスクを移転する手段であると同時に、システミック・リスクも増幅させる可能性が高い」と考えていました。

 この前者の意味するところは、スワップなどのデリバティブは簿外になるため、誰と誰がどのような契約を結んでいるのか、問題が起きない限り当事者同士しか分からないということです。この点は、第1回で取り上げた「アルケゴス・キャピタルのビル・フアン」でも触れていますので、ご参照ください。

▼アルケゴス・キャピタルのビル・フアン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【1】
https://fu.minkabu.jp/column/926

▼アルケゴス・キャピタルのビル・フアン(後編)―デリバティブを奏でる男たち【1】
https://fu.minkabu.jp/column/932

 また、後者ですが、デリバティブの価格急変によって、ヘッジファンドなどリスクテイカーの破綻が続くと、デリバティブの契約相手となるプライム・ブローカーの損失が大きくなります。そして、破綻の連鎖が金融機関に及ぶシステミック・リスクへと発展することは過去に幾度も起きています。こちらにつきましてはコラム「デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史」にまとめていますが、代表的なところでは「2007年 サブプライム問題」が参考になるかと思われます。

▼2007年 サブプライム問題(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【8】
https://fu.minkabu.jp/column/724

▼2007年 サブプライム問題(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【8】
https://fu.minkabu.jp/column/733

(敬称略、後編につづく

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。