今回はティンバー・ヒル・グループ(現在のインタラクティブ・ブローカーズ・グループ)及び、その創設者であり、電子取引のパイオニアと呼ばれているトーマス・ピーターフィー(Thomas Peterffy)を取り上げています。
ソビエト連邦占領下のハンガリーで生まれたピーターフィーは、英語も話せないまま米国に移住しました。コンピュータのプログラム方法を覚え、商品取引会社でオプションの適正価格を計算するモデルを開発して独立します。1977年にアメリカ証券取引所(AMEX:アメックス、2008年にニューヨーク証券取引所ユーロネクストに買収され、現在はインターコンチネンタル・エクスチェンジの傘下)の座席(シート)を買い、このモデルで算出されたオプションの適正価格表を用いる最初のマーケット・メイカーとなりました。彼はトレーダーを雇い、適正価格表で取引をさせます。
◆業務の効率化
ピーターフィーは業務の効率化にも取り組みました。適正価格表は当初、ピーターフィーのオフィスからフロア(取引が行われる立会場)にいるトレーダーに紙で届けさせていましたが、その作業を省くため無線の携帯端末を開発します。この端末にはリアルタイムで変わる適正価格表だけでなく、他の取引所における同じ銘柄の価格や現在の保有資産状況などの情報が表示され、ポジション管理がフロアのトレーダーの手元でできるようになっていました。今ではスマホを使えば当たり前のことかもしれませんが、有線電話しかなかった当時としては驚異的なツールです。
これをフロアに持ち込めるよう、ピーターフィーはアメックスと交渉しました。しかし、アメックスは許可しません。そこでシカゴ・オプション取引所(CBOE、Chicago Board Options Exchange)に端末を持ち込もうとしましたが、端末のサイズが大き過ぎると注文が付けられます。そのため端末を小型化したものの、結局はアメックスと同様に端末の持ち込みが禁じられました。しかたなくフィラデルフィア証券取引所(2007年にナスダック証券取引所が買収)に端末を持ち込んで取引をするようになります。
1983年になるとアメックスでも許可されますが、トレーダーが取引をするピット(フロア内にある各取引商品ごとの窪地)でなく、ピットから数メートル離れたブースでの使用に限定されました。そこでピーターフィーはブースに大型モニターを設置し、トレーダーがピットからでも適正価格が分かるように色で表現するようにしました。すると、他のトレーダーからインサイダーではないのか、と言いがかりを付けられ、取引所からモニターを撤去するよう求められます。止むを得ず非効率的ですが、手振り(手話のように手の動きで売買注文の内容を伝達する手法)で適正価格を伝えることにしました。
ピーターフィーは今でいえば、DX(デジタル・トランスフォーメーション)に相当する、従来とは異なった画期的な手法で稼ごうとしたのです。一方で稼げなくなる保守的な同業者から文句が出て、画期的な手法が使えないように邪魔が入るといったことは今も昔も変わらないようです。しかし、画期的な手法はやがて人々の支持を得て、一般的な方法に変わっていく力を持っています。
1987年にCBOEは取引が少ないS&P500種株価指数オプションの市場を閉鎖しようとしました。そこでピーターフィーは、携帯端末の持ち込みを許可するならば、ティンバー・ヒルが1年間、同市場をタイトにすると約束してCBOEの了解を得ます。ここでいうタイトとは、活況な市場がそうであるように、ほとんど値が乖離していない売り注文と買い注文がそれなりに分厚く揃っている板状況を指します。つまり、非常に売買しやすいように責任を持ってマーケット・メイクすることを意味しており、実際にティンバー・ヒルのマーケット・メイクによって同市場は活気を取り戻しました。今では同オプションは米国で活発に取引される主要な指数オプションのひとつになっています。
◆自動化やグローバル化を経て事業再編
彼は取引の自動化にも取り組みました。1987年にナスダック証券取引所の端末から情報を取り込んで、その情報を元に売買を判断して発注する、システム売買のプログラムを開発します。しかし、これも取引所から手動で行うように指導されてしまいます。そこでナスダックの端末モニターに映し出された映像を読み取るカメラ、その映像情報を解析するコンピュータ、発注する指を備えたシステムの設計も行い、何とかナスダック証券取引所に認めさせます。後に、取引所の端末に接続して注文を自動発注するシステム売買も許可されていくことになります。
また、システム売買の大量注文で生じる問題の解決にも取り組みました。一度に大量の注文を発注すると、現値よりも高く買ってしまったり、安く売ってしまうといった投資家に不利な約定になる、いわゆるスリッページが発生します。そこで、大量の注文を不均一な細かい注文に分割して、不均一な間隔で発注するプログラムを2008年に開発しました。このように一口の大量注文を適当にスライスして時間差で発注すれば、スリッページはかなり解消されます。そして、これらの手法を基礎にして、やがて高頻度取引(HFT:ハイフリークエンシー・トレード)が生まれていきます。
ティンバー・ヒルは米国のすべてのオプション取引所のマーケット・メイカーとなり、これらの画期的な手法をそれぞれの取引所に導入し、同じ方法で世界進出も始めます。1990年にドイツ、1992年にスイス、1994年にオランダやスウェーデン、ベルギー、英国、1995年にフランスや香港、イタリア、1997年にオーストラリアやノルウェー、オーストリアなど、日本には2002年に進出しました。
インタラクティブ・ブローカーズ・グループ(月足)
一方でピーターフィーは、ティンバー・ヒルで開発した携帯端末向けの情報や取引執行サービス用のテクノロジーを投資家に提供するため、1993年に証券会社インタラクティブ・ブローカーズを設立し、1995年からサービスを開始します。1994年にティンバー・ヒルとインタラクティブを統括するティンバー・ヒル・グループを設立し、これを2001年にはインタラクティブ・ブローカーズ・グループに変更しました。社名変更からマーケット・メイカー業務が次第に稼ぎにくくなり、ブローカー業務が主流になってきたことが想像されます。2007年に同グループはナスダックに上場を果たしました。(敬称略、後編につづく)