デリバティブを奏でる男たち【95】 エドワード・アイスラーのアイスラー・キャピタル(後編)

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 今回は英国でマルチ・ストラテジーを展開するアイスラー・キャピタルを取り上げています。同社は米名門投資銀行ゴールドマン・サックス<GS>の天才といわれたエドワード・キリル・アイスラー(Edward Kirill Eisler)によって2015年末に創設されました。その経営陣だけでなく従業員の多くがゴールドマン出身ですので、ゴールドマンの別動隊ともいえる組織ですが、ナンバー2として副最高投資責任者(CIO)を務めるサミュエル・ジョナサン・ウィスニア(Samuel Jonathan Wisnia)によって、厳格な文化が醸成されるようになりました。

 

◆マーマイトな性格

 

 ウィスニアは「信じられないほど聡明で才能はあるものの、信じられないほど傲慢で感情的知性に乏しい」とか「すべてを白黒で捉え、グレーの色合いについては全く考えていない」などと評されています。その風変わりな性格は一部で「マーマイト」と表現されました。マーマイトとは、ビールの醸造過程で増殖して最後に沈殿堆積する、いわばビールの酒粕を主原料とする発酵食品です。主にイギリスおよびニュージーランドで生産されていますが、イギリスのものは濃い茶色をしており、粘り気のある半液状で塩味が強く、独特の香気を持ちます。主にトーストに塗って食されますが、他に類を見ない味と香りのため、外国人には理解できない食品とされることが多く、日本や米国などでは悪評が高くて普及していません。こうしたマーマイトから転じて、賛否両論あるものについてスラングではマーマイトと表現するそうです。

 彼のマーマイトな性格は古巣のゴールドマンで波紋を呼び、金利責任者を務めていたドイツ銀行<DB> では敵を作ったとのことです。ドイツ銀行で多くの退職者が出たほか、彼は大手顧客のマクロヘッジファンドを怒らせたともいわれています。しかし、彼の指揮の下でドイツ銀行は、ゴールドマンのマクロ・ストラクチャー・チームから大量の人材を採用します。他の多くの欧州銀行とは異なり、米国の大手証券会社と競争できるようなリスク管理、および価格設定インフラを構築し、ドイツ銀行の欧州金利事業の収益は倍増します。

 

◆アイスラーが大きく変化

 

 2018年にウィスニアは銀行外での機会を求めてドイツ銀行を退職し、アイスラー・キャピタルに合流します。入社して間もなく、ドイツ銀行から7人の上級クオンツ金融スペシャリストのチームを引き抜きました。そして、2021年にアイスラーは主戦略をグローバル・マクロからマルチ・ストラテジーにシフトしていきます。マルチ・ストラテジー・ファンドを立ち上げて旗艦ファンドにする一方、従来のグローバル・マクロ・ファンドを22年に閉鎖しました。これには再び地政学的リスクの高まりが影響していました。

 同年のロシアによるウクライナ侵攻を受けて、欧州連合はロシアの新興財閥であるオリガルヒに経済制裁を科しました。その中にはアルファ・グループの傘下でロシア最大の民間商業銀行であるアルファ銀行の頭取であり、同グループの創設者の一人であるミハイル・マラトヴィッチ・フリードマンやプーチン・ロシア大統領の側近であるペトル・オレゴヴィッチ・アヴェン、フリードマンの大学時代の友人でアルファ・グループの創設者の一人であるジャーマン・ボリソヴィッチ・カーン、同じく同グループ創設者の一人であるアレクセイ・ヴィクトロヴィッチ・クズミチェフが含まれていました。

 彼らが出資する、通信やテクノロジー、エネルギーセクターに焦点を当てた国際投資会社であるレターワンから、アイスラーのグローバル・マクロ・ファンドは資金提供を受けていたのです。彼らオリガルヒはすぐに関連会社の役員を辞し、関連会社にも制裁が及ばないようにしたため、レターワンもアイスラーも制裁の対象にはなりませんでしたが、これを機にアイスラーはグローバル・マクロ・ファンドを閉鎖しました。

 

 

◆「知的で正直な」から「厳格で冷酷な」へ

 

 アイスラー・キャピタルは、アイスラーが自称「知的で正直な」ヘッジファンドとして「離職率が非常に低い」ことを、有能な人材を引きつける同社の能力の証しとしてアピールしていました。しかし、ウィスニアをナンバー2に据えてからは「厳格で冷酷な」ヘッジファンドに変貌し、そうした記述は最近のアピールの文言からは消えているようです。

 ウィスニアが「ストラット」と呼ばれる包括的な定量分析チームの運営を統括し、ポートフォリオ・マネージャーのポジションを完全に監視しながら、ファクター・モデルで最適化できるよう常にクオンツ介入しています。これはマルチ・ストラテジーを展開するファンドでは極めて異例のことです。また、彼は採用と解雇も担当していますが、そのペースの速さは際立っており、冷酷な解雇で悪名高い業界の中でも話題を集めるほどです。

 一般的にヘッジファンドはポートフォリオ・マネージャーに対して高いスカウト料を提示しますが、アイスラーではとても断り切れないほど高額なスカウト料を提示するとのことです。また、ヘッジファンドでは損失が5%に達するとポートフォリオ・マネージャーに預ける資本を削減したり、解雇したりすることが多いといわれていますが、アイスラーではさらに厳格のようです。例えば事前に設定した損失基準に達するかなり前に取引を停止したり、リスク制限に達する前に解雇しているそうです。

 元ゴールドマンのパートナーでアイスラーの最高執行責任者(COO)であるクリストファー・ミルナー(Christopher Milner)にいわせれば、「難しい決断を下すために必要な実力主義と知的誠実さが重視されている」に過ぎないとのことですが、それがためにまとまった退職者も出ています。こうした厳格さは運用成績が良ければ、あまり問題になることではありません。ところが、運用成績が悪くなった途端に投資家から手数料の値引き交渉が始まるため、優秀なポートフォリオ・マネージャーを招聘するための高額なスカウト料が提示し難くなる可能性が出てきます。2024年は同業者が2桁台に近い伸びの利益を上げた一方で、アイスラーは損失を出しており、同社にとってはこれからが正念場となりそうです。(敬称略)

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。