1987年 ブラックマンデー(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【2】 

著者:MINKABU PRESS
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◆暗黒の月曜日、世界の市場を飲み込んだ暴落の波


 本シリーズの第2回目は、1980年代に起きたS&L(貯蓄貸付組合、Savings and Loan Association)危機とも時期が一部重なるブラックマンデーについて取り上げます。1987年10月19日の月曜日、米国株式市場は大暴落に見舞われ、リスク回避による株価崩落の波が世界の株式市場を飲み込みます。この日の米ダウ工業株30種平均(ニューヨーク・ダウ)は前週末比で508ドルも値下がりしました。コロナショック時の2020年3月16日には前日比で2997ドルも値下がりしていますので、これと比べると大きな調整ではあるものの大暴落というほどではないように感じられるかもしれません。

 しかし、ブラックマンデー直前のニューヨーク・ダウは2246ドルでしたから、その下落率は22.6%にも達しています。この数値は同指数の下落率ランキングでいまなお歴代ワースト1位の記録です。仮にコロナショック時と同率の下げをみせた場合、下落幅は5000ドルを超えていたことでしょう。それを考えると、当時のショックの大きさがうかがえます。また、下落過程を比較すると、コロナショック時の方が時間をかけて大きく下落していますが、ブラックマンデーの時は極めて短期間で急落しています。

ニューヨーク・ダウ工業株の比較(ドル)
 ブラックマンデーがなぜ起きたのか、その後に様々な調査・研究が行われました。米国の「金融市場に関する作業部会(Working Group on Financial Markets)」もその調査を担った機関のひとつです。この部会はブラックマンデーのおよそ半年後、当時のロナルド・レーガン米大統領が創設した大統領直属機関で、米財務長官を部会長とし、米連邦準備制度理事会(FRB)議長や証券取引委員会(SEC)委員長、商品先物取引委員会(CFTC)委員長など錚々(そうそう)たるメンバーにより構成されています。金融市場の完全性や効率性、秩序、競争力を高めて、投資家の信頼を維持することを目標に掲げる同部会は、その後もリーマン・ショックや2018年末の米株急落時、そして前述したコロナショックの3月10日(このときは電話会議)など金融危機の度ごとに召集されており、暴落防止チーム(PPT、Plunge Protection Team)とも呼ばれる危機封印の砦となる組織です。
 

◆ブラックマンデーの時代背景 —ドル安不安、FRB新議長、デリバティブの発展


 ブラックマンデーがなぜ起きたのかについては諸説あり、様々な要因が重なったと考えられますが、当時の時代背景も強く影響を及ぼしたのではないでしょうか。70年代の度重なるオイルショックで起きたインフレを抑制するために、FRBは70年代後半から80年代前半にかけて高金利政策を実施していました。しかし、これにより過度な米ドル高と貿易赤字の拡大を招いてしまいます。貿易と財政の“双子の赤字”で苦境に立たされた米国は、ドル高是正に向けて1985年9月にプラザ合意をとりまとめます。

 プラザ合意は、ニューヨークのプラザホテルで開催されたG5(先進国5カ国=日本・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス)財務相・中央銀行総裁会議において、他の主要通貨に対してドルを1割以上切り下げるよう、参加国が協調介入の実施を約束したものでした。この合意によりドル高はドル安へと反転し、米国は輸出競争力を高めることができました。しかし、協調介入の目標を超えてもドル安は止まらず、プラザ合意前に1ドル=240円台だったドル円は約1年半後に150円前後まで下落します。
1980年代の米ドル円(円)
 そのため為替相場の不安定化を恐れた先進国は、1987年2月にG7(G5+イタリア、カナダ)財務相・中央銀行総裁会議をパリのルーブル宮殿で開催し、行き過ぎたドル安に歯止めを掛けようとします。これがルーブル合意です。各国が協調して為替変動率を5%(上下2.5%ずつ)以内に抑えるターゲット・ゾーンを創設しようとしたのですが、共同声明には具体的な数字もなく、明確で確固たる合意ではありませんでした。ルーブル合意の5カ月後にドイツが国内のインフレを懸念して金融引き締めに転じたことにより協調体制の枠組みは崩れ、ドル安不安は一段と強まったのです。

 こうした時代背景に加え、インフレ・ファイターとして市場の信認が厚かったポール・ボルカーFRB議長が1987年8月に退任。代わってアラン・グリーンスパン議長が就任しました。グリーンスパン議長は後に「マエストロ(巨匠)」との異名を持つほど市場から高い信認を得ますが、就任当初は手腕が未知数であったため市場心理は委縮していたと考えられます。

 さらに、先物やオプションといったデリバティブの金融商品市場が発展してきたことに加え、プログラム売買が普及し始め、高頻度取引(HFT、high frequency trading)が使われるようになっていたことも影響したようです。ただし、高頻度といっても最近のように10億分の1秒を争うものでなく、10分の1秒を争う程度だったと言われています。

 

 

◆ショック安に弾みをつけた「ポートフォリオ・インシュアランス」


 また、当時は年金運用者に対してはプルーデントマン・ルールが求められていました。このルールは、1974年にアメリカで制定された従業員退職所得保障法(エリサ法)第404条において定められている行動規範で、職務に応じて専門家としての能力を活かし、思慮深い投資行動を取らなければならない、とするものです。近年では日本の金融庁が国内金融機関に求めているフィデューシャリー・デューティー(顧客本位の業務運営に関する原則)に近い内容と考えられます。

 このプルーデントマン・ルールに基づいて運用者には、ベンチマーク(資産運用や株式投資において指標となる指数)となるインデックスに勝つ運用よりも、負けない運用と強いリスク管理が求められるようになります。このため、運用者はパッシブ運用への傾斜を強めていくとともに、プログラム売買を利用したポートフォリオ・インシュアランスを多用するようになっていきます。

 ポートフォリオ・インシュアランスとは、直訳すると「安全資産とリスク資産の最適配分を考慮した、具体的な金融商品の組み合わせに対する保険」といったところでしょうか。株価上昇による収益を多少犠牲にしても、株価下落による損失を抑える投資手法です。これをデリバティブなどで行っていたわけですが、このポートフォリオ・インシュアランスが下落に拍車を掛けてブラックマンデーが起きた、との見方が今日では一般的のようです。1988年のSEC報告書においても、前週末のポートフォリオ・インシュアランスによる大量の売り残り情報が週明けのブラックマンデーの売り圧力になった、と分析しています。

では、一体、この手法の何が問題だったのでしょうか。 
(後編につづく)

 

 

 

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