◆懸念の顕在化、1年で7回もの利上げで崩れたシナリオ
1994年2月、米連邦準備制度理事会(FRB)はインフレ懸念の台頭を背景に、それまで実施していた金融緩和政策を転換して利上げに踏み切りました。その後も利上げは続き、約1年間で7回も実施され、政策誘導目標金利であるFFレートは3.0%から6.0%へと引き上げられます。これを受けて市中金利も上昇。今後に金利が上昇しない、もしくは低下するというOCIP(オレンジ郡投資プール、Orange County Investment Pool)の相場観は無残にも外れてしまいます。
出所:リフィニティブ
しかも、約1年間でFFレートを倍にするほど急ピッチの金融引き締めを実施するとは予想できなかったのでしょう。金利が上昇する過程で、保有する政府支援機関債を売却し、レバレッジ投資を止めるという選択肢もありましたが、躊躇しているうちに政府支援機関債は値下がりし、売却損が出るような状態になっていたものと想像されます。
加えてOCIPが行っていた長短金利差を利用したレバレッジ投資においても金利上昇は痛手でした。リバースレポ取引は借り換えの際に、金利が低下していると担保となる長期の政府支援機関債との利ザヤは広がりますが、金利が上昇していると利ザヤがつぶれてしまい、場合によっては借り換え金利が、政府支援機関債の利回りを上回る逆ザヤとなる可能性も考えられます。つまり、リバースレポ取引も、金利が上昇しない、もしくは低下するという相場観に基づいた戦略であると言えましょう。
こうしたレバレッジ投資やインバース・フローターへの投資は1993年まで順調だったようですが、1994年に金利が上昇を始めると、懸念されていたリスクが次々と顕在化してしまいました。
そして、いよいよ資金繰りが行き詰まり、1994年12月にOCIPの15億ドルにものぼる評価損が発覚します。発覚と同時にOCIPのリバースレポ取引に応じていた金融機関が担保資産を売却し始めたので、オレンジ郡は財産保全のため連邦破産法第9条(Chapter 9)の適用を申請しました。
◆後処理、わずか18カ月で破綻状態から脱出
オレンジ郡は破綻後に保有債券を損切りし、さらに返済資金を捻出するために財政再建債を発行します。リスクが大きいため、破綻した自治体が発行する債券を買ってくれる投資家はほとんどいませんが、大手地方債保証会社の保証が付いたことで資金調達が可能になりました。これらで得た資金はOCIPの出資団体に対する返済に充てられ、足りない分は払い戻し債権や短期財政再建債などを発行して償還を約束しました。
また、歳出を削減するため職員のリストラや経費削減を実施したほか、歳入を高めるため日本の消費税に相当する売上税を0.5%増税する提案も行いますが、1995年6月の住民投票で増税は拒否されてしまいます。加えて、オレンジ郡の上位行政区分であるカルフォルニア州からも支援を拒まれました。
しかし、債権者は投資元本を失うよりはと支払い延長を承諾します。また、オレンジ郡の交通公社に交付される売上税を担保に郡が債券を発行して返済に充てる、破綻に関わった金融機関に対する損害賠償訴訟の和解金も返済に充てる、などといった再建策が承認され、オレンジ郡は破綻申請からわずか18カ月で破綻状態から脱することができました。その後に破綻に関わった金融機関に対する損害賠償訴訟で、オレンジ郡は8億ドル以上の和解金を得ます。
◆何が財務担当役をハイリスク投資へ追い込んだのか?
ところでOCIPの危機的状況に対しては、破綻の半年前にすでに警鐘が鳴らされていました。OCIPを運用するオレンジ郡の財務担当役は住民投票で選ばれますが、1994年6月の投票の際、一連のハイリスクな投資を行っていた財務担当役に対抗して出馬した候補が、OCIP の市場価値が12億ドルも低下すると警告していたのです。
しかし、投票の結果は圧倒的な大差で現職が再選しました。再選した財務担当役は1972年以来、現職を務めており、住民から厚い信頼と期待が寄せられていたのでしょう。そんな住民の期待が高い財務担当役も最初からハイリスクな投資を行っていたわけではありません。それでは、何が彼を追い込んだのでしょうか。
それを知るには当時の財政状況や経済状況をみる必要があります。カルフォルニア州では1978年6月にプロポジション13(住民提案13号、税の制限-住民発案による憲法修正)が住民投票にかけられ、圧倒的な賛成で成立しました。これによって州や地方政府の税収が減額されることになり、当時は「納税者の反乱」「税金地震」などと言われるほど話題になりました。このため当然、州や地方政府の財政は逼迫します。加えて、厳しい景気後退が同州を襲いました。
出所:カルフォルニア州財務局、米国勢調査局
カルフォルニア州は今でも全米で最も裕福な地域と言われ、2019年末には年収1400万円の4人家族世帯が低所得層に分類されたと日本でも報じられたほどです。当時も米国経済を牽引する裕福な地域でしたが、1990年代に入って経済状況は極端に厳しくなってしまいました。その背景には東西冷戦の終結により米国の国防費が削減されたことがあります。これにより同州で盛んだった航空機産業において「従業員の45%を削減するといった大規模なレイオフ」が実施されたと言われています。
その後に州から郡への税収割り当てが減少する一方で、規制緩和によりオレンジ郡ではOCIPの利子収入に大きく依存する状況となっていきます。1992-93年当時、他の郡では歳入に対する利子収入のウェートは2%くらいでしたが、オレンジ郡では12%に跳ね上がっていました。規制緩和はOCIPの運用にもおよび、様々な運用方法が認められたことにより、財務担当役が期待に応えて5~7億ドルもの利子収入を実現させました。
しかし、それがために周囲の期待がさらに膨らみ、彼をリスクの大きな投資へと追い込んだものと考えられます。にもかかわらず、先ほども触れたように破綻しても増税を認めようとしなかった住民の行動は無責任とそしられても仕方がないでしょう。オレンジ郡の破綻は無謀ともいえるハイリスク投資への傾斜、損失を膨らませる結果につながった判断の遅れ、住民たちの身勝手な期待値の高まりなど、人為的な負の側面が浮き彫りにされた金融危機の事例でもあったといえるでしょう。