クォンタムのスタンレー・ドラッケンミラー(後編)―デリバティブを奏でる男たち【3】―

ブックマーク

◆「ホワイト・ウェンズデー」、予見していた英国経済の回復


 1992年9月のポンド危機によってクォンタム・ファンドのジョージ・ソロスやスタンレー・ドラッケンミラーらは「イングランド銀行を破った男」として名を馳せました。一方のイングランド銀行にしてみれば、ヘッジファンドに敗れてポンドの急落を止められなかったのですから、ポンド危機が起きた水曜日はまさに「ブラック・ウェンズデー」と呼ぶほかない屈辱の日だったといえます。

 ところが、ポンド危機によってERM(欧州為替相場メカニズム)から離脱した英国は、ドイツに気兼ねなく利下げを実施できるようになりました。また、通貨切り下げにより英国の輸出産業は為替差益などで潤い、ここから英国経済は回復し始めます。そのため、多くのエコノミストはポンド危機が起きた水曜日を「ホワイト・ウェンズデー」と呼んでいるのです。

 ドラッケンミラーはERM離脱によって英国の景気が回復することを予見し、ポンド売りと同時に英国の株式と国債の両方を買っていました。そして、ホワイト・ウェンズデー後の2カ月以上にわたり英国の株式と国債はいずれも急騰し、ドラッケンミラーはここでもきっちりと収益を上げています。

 その後にクォンタム・ファンドは、ポンド危機と同じ発想でスウェーデン・クローナの空売りを仕掛け、同通貨は1992年11月に切り下げとなり、ここでも10億ドル以上の利益を手にしたと言われています。そして、1994~1995年のメキシコ通貨危機、1997年のアジア通貨危機においても同様の展開が繰り返されます。

 1997年7月のタイ・バーツ切り下げにおいても、クォンタム・ファンドは比較的早い段階からタイ・バーツ売りを仕掛けており、最後は前回に取り上げたタイガー・マネジメントが止めを刺したと言われています。
 

◆ルーブル危機のきっかけ、ソロスの誤算


 良い話ばかりではありません。1994年、米クリントン大統領と細川護煕首相との日米首脳会談において包括通商協議が行われます。この協議では、米国が望むドル安・円高の圧力を嫌がり、日本側は米国側の提案を飲む、と見られていました。このときクォンタム・ファンドは円キャリートレードを通じて80億ドルもの資金調達を行っており、同額の日本円売りポジションを事実上持っていたことになります。

 ところが、政府調達や保険市場、自動車・自動車部品といった優先分野で、客観的基準と数値目標の関係を巡って両国の溝が埋まらず、包括通商協議は決裂します。これをきっかけに米国政府の思惑通り日本円は急騰。クォンタム・ファンドは円キャリートレードの手仕舞いを余儀なくされて、5億ドル前後の損失を出したとされます。

 加えて、1998年にLTCM(Long Term Capital Management)が破綻するきっかけとなったルーブル危機において、ソロスは破滅的な役割を果たした、と言われています。彼は投資家であると同時に、自分は救世主になることを運命づけられている、といったメサイア・コンプレックス(救世主妄想)を抱く慈善家でもあったようです。

 通貨危機に見舞われたタイや他のアジアと同様に厳しい財政状況であったロシアで、ソロスはルーブルの空売りを仕掛けるどころか、ドラッケンミラーらに相談もせず、国有電話会社の入札に参加しておよそ10億ドルを投じたほか、ロシア政府からの要請で数億ドルを極秘に融資した、と言われています。

 その後に、一段と危機的な状況に追い込まれたロシアから極秘に相談を受けたソロスは、ロシアへの70億ドルのつなぎ融資を米財務省に要請します。しかし、このとき既にLTCMが危機的な状況にあり、米財務省はそれどころではありませんでした。そこでソロスは英フィナンシャル・タイムズ紙に意見広告を掲載。ロシアへの融資とルーブルの切り下げといった救済政策を訴えます。

 ところが、市場関係者は「イングランド銀行を破った男」の意見広告を、ルーブルの空売りを仕掛けた後のポジション・トークと受け止めます。そして、後に続けとばかりにルーブルの空売りを仕掛け、これがきっかけとなってルーブル危機に至ってしまいました。

 このときクォンタム・ファンドはロシア国有電話会社の株式に加え、他のロシア株や債券も保有していました。ルーブルの空売りはせずとも、これらの株や債券に見合うだけのルーブル売りポジションを持ってヘッジはしていたようです。

 ところが、ルーブル危機によって取引相手であるロシアの為替銀行が倒産、支払い不能となってしまいます。ヘッジ・ポジションは紙くずと化し、クォンタム・ファンドは10~20億ドルの損失を被ったとされます。
 

◆クォンタム・ファンドを去る


 兜町の古いディーラーから教わった格言に「相場の柱になっている銘柄を空売りしてはいけない」というものがあります。相場の柱になるほど人気がある銘柄の株価は、理不尽な水準にまで持ち上げられるものです。そんな銘柄を売り向かっても勝ち目はないどころか、思い切り踏み上げられることになりかねない、との戒めです。

 1999年のITバブルにおいて、クォンタム・ファンドのドラッケンミラーはタイガー・マネジメントと同様にIT関連株を売り向かっていました。当時もてはやされたネット系の新興企業はほとんどが利益を出しておらず、通信系企業も期待されたほど利益が伸びないなど、従来のヘッジファンドにしてみれば格好の売り対象だったのです。

 ところが、IT関連株の売りは失敗し、ドラッケンミラーは数週間で6億ドルの損失を出してしまいます。彼の長いキャリアの中でもこれほどの不調は初めてだったそうです。手痛い目にあったタイガーのジュリアン・ロバートソンはIT関連株を敬遠するようになりましたが、ドラッケンミラーは違っていました。

 これも古いディーラーから教わった格言に、「苦手な銘柄は作らない」があります。一度手を出して損した銘柄を敬遠するのは、投資家として当たり前の心理ですが、それを繰り返していると手を出せる銘柄が少なくなってしまいます。そのため、損した銘柄でいま一度ポジションを取り直し、少しでも益出しを経験しておくのだそうです。

 また、「売って駄目なら買ってみる」という格言もあります。自暴自棄で無謀なトレードのようにも思えますが、そもそも売りが間違っていたわけですから、論語で言う「過(あやま)ちては改(あらた)むるに憚(はばか)ること勿(なか)れ」というわけです。ドラッケンミラーはこれを実践しました。年末を前にIT関連株を買い向かい、見事に損失を取り戻します。


出所:Refinitiv、1998年10月から2001年9月末までの日次データ

 しかし、2000年の年始には再び空売りを仕掛けて持ち上げられ、もう一度買い向かいますが、今度は暴落に見舞われ、完全にお手上げの状態となりました。ソロスのファンドの資産総額は1998年8月の220億ドルから2000年4月に76億ドルまで減少。これを機会にドラッケンミラーはクォンタム・ファンドを去り、ソロスもファンドの縮小と再編を余儀なくされました。

 その後、ドラッケンミラーは自らのファンドであるデュケイン・キャピタルの運用に専念しますが、やはり10年後の2010年10月に同ファンドも閉鎖します。他人のために資金を運用するストレスに嫌気が差したほか、直近3年間で年平均30%というリターンを達成できなかったことに不満を漏らしており、限界を感じたのかもしれません。

 大物トレーダーとしてこのような足跡を残してきたドラッケンミラーですが、最近の彼の発言に非常に興味深いものがあります。現在の米連邦準備制度理事会(FRB)の金融政策とアメリカの赤字財政支出が、米ドルを破壊の道へと導いていると警鐘を鳴らし、国際準備通貨としてのドルの地位に「取って代わる可能性が最も高い」のは暗号資産だと考えている、と述べているのです。

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。