ポイント72アセットのスティーブン・A・コーエン(後編)―デリバティブを奏でる男たち【7】―

ブックマーク
 

◆デルでもインサイダー取引疑惑


 2013年に発覚したSACキャピタルによるインサイダー取引は、アイルランドのバイオ医薬品メーカーであるエランと米大手医薬品メーカーのワイス(2009年にファイザー<PFE>が買収)だけではありませんでした。実はそれと時を同じくして、コンピューター・テクノロジー企業であるデル<DELL>を巡っても同様の取引が行われていたのです。

 SACキャピタルの関連組織・CRイントリンシックのハイテク部門のアナリストがデルの粗利率は市場の期待を下回りそうだ、との情報を得ます。このアナリストはコーエンやコーエンにデルを推奨していたプロトキンなどに、その内容をメールしました。その後にSACキャピタルはデルの持ち株を全て売却し、空売りまで仕掛けて640万ドルもの利益を上げます。


出所: 2008年1月から2008年12月末までの日次データ

 こうした経緯がSEC(米国証券取引委員会)やFBI(米連邦捜査局)の数年にわたる調査によって発覚し、CRイントリンシックのポートフォリオ・マネージャーやハイテク部門のアナリストらがインサイダー取引容疑で逮捕されたのです。

 

◆追い詰められなかった捜査当局


 SACキャピタルもインサイダー取引に関する証券詐欺と有線通信不正行為などで起訴され、エランとワイスの一件で約6億ドル、デルの一件で約1400万ドル、都合6億ドル以上の罰金がSEC(米国証券取引委員会)により科せられました。加えて、捜査当局からの訴追に対する和解金として12億ドルを支払います。

 しかし、儲けられそうな情報を漏らさず部下に報告させ、自らのトレードにも反映させていたSACキャピタル創業者のスティーブン・A・コーエンは、これらの問題で逮捕されることはありませんでした。コーエンがインサイダー情報を聞いてトレードした、という確かな証拠が得られなかったのです。

 特にデルの場合、SACキャピタルの担当者がコーエンにメールを送り、電話までしています。その直後からコーエンがデルを売却し始めたところまでの状況証拠は揃っていました。しかし、これだけで事前にメールでインサイダー情報を確認した、あるいは事前にインサイダー情報を電話で聞いた、とまでは言い切れなかったようです。結局、追い詰められなかった米捜査当局はコーエンをインサイダー取引による起訴でなく、社員の監督不行き届きといった軽い罪で起訴するしかなかったのです。

 

◆ポイント72アセットの創設


 コーエンは、2008年のピーク時には168億ドルも運用していたSACキャピタルを2014年4月に閉鎖します。そして、自己資金100億ドルを投じて、ポイント72アセット・マネジメントという名のファミリー・オフィスを設立します。この社名は、本社の住所である米コネチカット州スタンフォードのカミングス・ポイントロード72番地に由来するとされています。

 ファミリー・オフィスとは、個人や家族などの金融資産を運用・管理する法人のことを指し、第1回の『アルケゴス・キャピタルのビル・フアン(前編)』でも触れました。ビル・フアンの場合、インサイダー取引によってブローカー、ディーラー、投資アドバイザー、証券ディーラーなどの仕事に就くことを生涯禁止(ただし5年で再審査の権利あり)されたため、ヘッジファンドではなくファミリー・オフィスといった資産運用形態を選択することになりました。

▼アルケゴス・キャピタルのビル・フアン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【1】―
https://fu.minkabu.jp/column/1059

 コーエンも同様に、社員の監督不行き届きで起訴された一件は2016年に和解し、2018年まで外部顧客の資金運用を禁じられたため、ヘッジファンドではなくファミリー・オフィスの設立に至ったわけです。

 そして、SACキャピタルのロング・ショート投資部門は、ポイント72アセット・マネジメントとエバーポイント・アセット・マネジメントに分割し、マルチ・クォンツ事業はキュビスト・システマティック・ストラテジーズに移管しました。2016年に入ると、アジア、ヨーロッパ、中央アメリカおよび米国で、フィンテックや機械学習、人工知能、サイバーセキュリティなどの分野に投資するベンチャー・キャピタル・ファンド、ポイント72ベンチャーズも設立しています。


 

◆捜査当局を丸呑み!?


 今回のインサイダー取引問題を経て、コーエンは元連邦検察官や元FBI、SEC 、CIA(米中央情報局)に至るまで、米国のあらゆる捜査当局から捜査官を次々と採用し、専門のトレーダー監視ユニットを設立します。これは社内のコンプライアンスを強化するのが目的でしょうから、非常に理にかなった施策です。しかし、穿った見方をすれば、それはまるでSACキャピタルを閉鎖に追い込んだ捜査当局の関係者を丸呑みにしているようにも映ります。

 さらに、SACキャピタルが支払った都合18億ドル以上の罰金の交渉に参加した米連邦地検の刑事部長は後に、コーエン側を弁護した弁護士事務所の役員に転職しています。また、SEC法務執行部門の上級執行官も、コーエンの顧問弁護士が働く弁護士事務所に転職しているのです。

 そして、コーエンは外部顧客の資金運用ができるようになった2018年以降、ポイント72アセットをヘッジファンド運営会社に変更します。外部の資金を取り込んで運用した結果、2021年3月末現在の運用資産は221億ドルとSACキャピタル時代を上回る規模に膨れ上がっています。

 最近、コーエンは暗号資産に投資すべく、ポイント72アセットで暗号資産のトレーダーを探していると報じられているほか、彼の個人的な資産を運用するコーエン・プライベート・ベンチャーズでは、既に暗号資産とブロックチェーン(分散型デジタル台帳)技術を有する企業に的を絞った新興ヘッジファンドに投資しているとのこと。コーエンのさらなる拡大に向けた飽くなき挑戦はまだまだ続くようです。(敬称略)

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。