デリバティブを奏でる男たち【54】 ウィントン・グループのデビッド・ハーディング(前編)

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◆英国の著名なCTA


 今回はマネージド・フューチャーズ・ファンドを運営する英国の著名なCTA (Commodity Trading Advisor、商品投資顧問)、ウィントン・グループを取り上げます。同社は現在、米国で投資顧問としてSEC(Securities and Exchange Commission、米証券取引委員会)に登録され、CTAとしてCFTC(Commodity Futures Trading Commission、商品先物取引委員会)にも登録されており、英国のFCA(Financial Conduct Authority、金融行動監視機構)によって承認されています。

 また、同社はロンドン金属取引所を訴えている1社として、その名が取り沙汰されていました。2022年3月に同取引所が、ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに暴騰したニッケル取引を中止したうえに、その日の取引を無かったことにする、という前代未聞の措置で物議を醸したことは記憶に新しいところです。これを巡って取引所に対するヘッジファンドからの訴訟が殺到しています。加えて、同社の創設者であるデイビッド・ウィントン・ハーディング卿は1987年、会社の同僚とともにAHL (旧称Adam, Harding & Lueck)というCTAを創設。AHLが世界最大の上場ヘッジファンド、英マン・グループに買収された話は以前に触れたとおりです。詳細は以下をご参照ください。

▼ヘッジファンド業界の総合商社、マン・グループ(前編)―デリバティブを奏でる男たち【37】
https://fu.minkabu.jp/column/1615

▼ヘッジファンド業界の総合商社、マン・グループ(後編)―デリバティブを奏でる男たち【37】
https://fu.minkabu.jp/column/1631

 1961年生まれのハーディングは、公務員であった父親のささやかな株式ポートフォリオを管理する手伝いをしたことで、投資に興味を持つようになったといいます。大学はケンブリッジで理論物理学を専攻。1982年に自然科学の最優等学位(ファーストクラス・オーナーズ)を取得して卒業しました。その年の後半、彼は英株式仲買業者のウッド・マッケンジーで研修を始め、同社で株式ブローカーとして働き始めたのが、キャリアのスタートとなります。その2年後に先物取引業者であるジョンソン・マッセイ・アンド・ウォレスに商品先物のトレーダーとして入社しました。

 1985年には英国で最初のCTAのひとつであるサーベル・ファンド・マネジメントに先物トレーダーとして転職。そこで彼は2年間も毎日様々なチャートを手書きしていたそうです。これは誰にでもできる単純な作業ですが、同時に非常に面倒な作業でもあり、データベースから売買データが簡単にダウンロードできるこのご時世では、そのような非効率的なことはほとんど行われていないと思われます。しかし、自分の手を動かしてデータに深く関わることは、値動きがランダムではないという自分の感覚に大きな影響を及ぼした、とハーディングは考えています。

 やがて同社で知り合ったマイケル・アダムとマーティン・リュックとともに、クオンツ・トレードに焦点を当てたCTAのAHLを創設しました。AHLがマン・グループに買収された後、ハーディングはマン・クオンツテイティブ・リサーチの責任者となりますが、研究に対する焦点の欠如と大企業の官僚主義に不満を感じて同社を退職。1997年に160万ドルの運用資産を集めてウィントン・キャピタル・マネジメント(2016年に社名をウィントン・グループへ変更)を創設しました。この社名は彼のミドルネームと父親の名に因んで名付けられたそうです。
 

◆栄枯盛衰


 彼はマーケティングに依存するのではなく、実証的な科学研究に基づいてビジネスが成功できることを実証するために同社を設立したとのこと。それゆえ強力な研究環境を構築し、市場データの定量的、統計的調査を用いて取引の決定を行うために、積極的に統計学者、エンジニア、物理学者などを採用しました。同社は自らを「現代的な投資管理会社」と称し、データ分析とモデリングを使用して商品や債券など、世界の先物市場のトレンドを追跡するマネージド・フューチャーズ戦略を行っています。

 もっとも、投資家は先物取引よりも株式市場に焦点を当てたヘッジファンド戦略を好んだため、当初はCTAとして顧客を引き付けるのが困難だったようです。しかし、2005年には様々な金融商品や証券に投資するマルチ戦略ファンドとして設計したウィントン・エボリューション・ファンドを立ち上げ、2010年には世界中の株式市場に投資するウィントン・グローバル・エクイティ・ストラテジーを立ち上げました。

 これらのファンドは1990年代と2000年代に2桁の年間リターンを頻繁に叩き出したことから、管理手数料6%、成功報酬15%という高額な手数料を請求しても、投資家に高く評価されたようです。特に2008年のリーマン・ショックのときには、同業他社が苦戦する中、株安への賭けと原油価格の急落も手伝って高い収益をあげました。これに合わせて同社の運用資産は膨れ上がり、2000年には1.5億ドル、2004年には10億ドル、2009年には124億ドルへと急増しました。翌年から伸び率は鈍化したものの、2017年12月時点で285億ドルまで増えます。ところが、その後は主力ファンドにおいて20%以上もの重大な損失が1年も続いて評判を大きく落としてしまい、2020年末には73億ドルまで減少しました。

 こうした運用成績の悪化や運用資産の減少の背景には、投資戦略の大転換が大きく関係していたようです。それまでは、ほぼ全面的にコンピュータ主導でトレンドを追うことに全精力を集中させていましたが、それを約4分の1にまで削減。代わりにマクロ経済データを利用して通貨や債券、株式、クレジットを取引する戦略を構築したものの、これが裏目に出てしまいます。一体何があったのでしょうか。(敬称略、後編につづく)
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。