本連載では第70回でジェイン・グローバルを新しく立ち上げようとしているロバート・ジェイン(通称ボビー・ジェイン)に触れた後、第71回でマイケル・ロバート・ゲルバンド率いるエクソダスポイント・キャピタル・マネジメントを取り上げました。これらマルチ・ストラテジーを展開するヘッジファンドを中心に、投資マネージャーの争奪戦が繰り広げられています。彼らを惹きつけるため、各社は様々な条件を提示しており、その一つに魅力的な勤務地が挙げられます。例えば、第7回で紹介したスティーブン・A・コーエン率いるポイント72アセット・マネジメントはイタリアのミラノにオフィスを新設しました。
それはイタリアが、誰もが願う世界で一番住みたい国というわけではなく、外国で得た所得に対する納税額を一律10万ユーロ(1ユーロ=160円として1600万円)とするなど、外国人や外国資本に対して魅力的な税制を提供しているからです。2022年にジョルジャ・メローニ首相が就任して以降、財政上の問題から優遇措置の一部は削減されましたが、一律納税額の制度は残っています。庶民感覚で10万ユーロはとんでもない納税額ですが、数千万ドルの報酬を受け取る投資マネージャーにとっては非常に魅力的な税制といえるでしょう。そんなイタリアに、ポイント72と同様にオフィスを新設したキャップストーン・インベストメント・アドバイザーズを今回は取り上げます。
◆取引所のフロアでレジリエンスを学ぶ
ポール・マシュー・ブリットン(Paul Matthew Britton)によって2004年に創設されたキャップストーンは、投資対象をボラティリティ(予想変動率)に特化した、幅広いデリバティブベースの戦略を運営するグローバルなオルタナティブ投資運用会社です。2023年1月現在、公的年金基金や企業年金基金、大学基金、慈善財団、政府系ファンド、保険会社、銀行など、多様なグローバル機関投資家の資金およそ115億ドルを運用しています。
創設者のブリットンは、1973年に英ロンドン郊外のサリー州で生まれ、母子家庭で育ちました。果物と野菜のトレーダーであった祖父に触発され、子供の頃から「常にトレーダーになることを夢見ていた」といいます。英メトロポリタン大学で欧州ビジネスファイナンスの学士号を取得した後、1994年に米マーケットメーカー大手であるバーチュ・ファイナンシャルの創設者兼会長ヴィンセント・ジェームス・ヴィオラ(通称ヴィニー・ヴィオラ)の英オプション取引会社、サラトガ・リミテッドに就職しました。
ブリットンはオプションを取引する見習いトレーダーとして、ロンドン国際金融先物取引所(LIFFE、London International Financial Futures and Options Exchange、現在はICEフューチャーズ・ヨーロッパに統合)のフロア(取引が行われる立会場)で働き始めます。次に少数で結束の固いトレーダーグループが仕切っている悪名高いイタリア国債のオプションピットで働くことになりました。もともとピットは“窪地”という意味ですが、取引所のフロアには商品ごとにすり鉢状の窪んでいる場所があり、この場所をピットと呼びます。トレーダーは取引したい商品を、それぞれのピットで取引することになっています。
ここで他社のトレーダーから、何もせずに他のトレーダーが行う取引の分け前を確実に得るように、と告げられました。しかし、いくら待っていても分け前などありません。こうした特殊な慣例があることを上司に話すと、「君は私が思うほど賢くない」と突き放され、明日5件の取引を実施しなければ会社を去ることになる、と警告されます。仕方なくトレードをしようとすると、他社のトレーダーから「口を開けば最悪の事態になる」と脅される始末です。それでも何とか8つのトレードを実施しましたが、今度は「並外れた」虐待が待っていました。夕方までには心が折れるような状況が何カ月も続きます。この厳しい環境の中で、ブリットンはトレーダーの大事な資質であるレジリエンス(困難をしなやかに乗り越え回復する力)を学んだそうです。
LIFFEのフロアで3年間働いた後、ブリットンはアムステルダムの新設事務所に異動します。そこではLIFFEのフロアで行っていた手振り(手話のように手の動きで売買注文の内容を伝達する手法)を導入し、注文スピードでオランダ人トレーダーらを圧倒します。また、1997年のアジア通貨危機と1998年のロシア財政危機の際には大きな利益を得ることに成功しました。当時の状況につきましては、以下をご参照ください。
▼1998年 LTCM(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/668
◆新たな金融テクノロジーに遭遇
そんなブリットンでしたが、アムステルダムで新しい金融テクノロジーに遭遇し、それに精通したトレーダーが市場の混乱を利用しているところを目の当たりにします。彼はオプションのマーケットメーカーであったティンバーヒル(後の米大手ネット証券会社インタラクティブ・ブローカーズ・グループ)が発注した一見儲かりそうな取引に応じますが、すぐに価格が不利な方向に動き、損失を余儀なくされる経験を幾度も重ねてしまいます。ティンバーヒルの創設者であり、後に電子取引のパイオニアと呼ばれたトーマス・ピーターフィは、オプションの理論価格を算出する携帯端末を開発し、それをフロア・トレーダーに持たせるといった当時としては画期的なトレードを行っていました。これにブリットンは強く啓発され、キャップストーンを創設するきっかけの一つになったようです。
1999年にブリットンは仲間とともにサラトガをMBO(Management Buyout、経営陣による自社の買収)で買い取り、社名をマコ・グローバル・デリバティブスに変更しました。その2年後、ブリットンはマコの米国事業の最高経営責任者(CEO)としてニューヨークに拠点を移しますが、着任早々、同時多発テロ「9.11」に遭遇してしまい軽傷を負ったとのことです。その後、2004年にマコの米国事業をMBOで買い取り、社名をキャップストーンとしました。(敬称略、後編につづく)