◆伝説のファンド、クォンタム・ファンド
第3回は前回に取り上げたジュリアン・ロバートソンが率いた「タイガー・マネジメント」のライバルである「クォンタム・ファンド」を取り上げます。同ファンドの創設者であるジョージ・ソロスやジム・ロジャーズはあまりにも有名ですから、ここでは同ファンドで長く運用責任を担っていたスタンレー・ドラッケンミラーを中心に見ていきましょう。
クォンタム・ファンドは元々、ジョージ・ソロスがロスチャイルド系の米老舗ブローカーであるアーンホールド・アンドS・ブライヒレーダーに勤めていた時代に運用していたヘッジファンドを引き継ぎ、独立した後に改名したものです。ジョージ・ソロスはブライヒレーダーで一緒に働いていたジム・ロジャーズとともに運用にあたっていました。このファンドは当時では珍しく国をまたいだロング・ショート戦略を展開するなど、グローバル・マクロ戦略の走りだったと考えられます。
出所:各種資料、太字はアーンホールド・アンドS・ブライヒレーダー勤務時代の運用ファンド
ファンドは初期資本の100倍に膨れ上がるほど大成功を収めますが、ジョージ・ソロスは1980年にジム・ロジャーズと袂を分かち、大きくなり過ぎたファンドを分割し、他に運用を任せて市場から離れていた時期もありました。しかし、運用成績が落ち込んだこともあって1984年に復帰します。そして、1985年のプラザ合意前に米当局がドル安を目指していることを確信し、ドル売りを仕掛ける「プラザ・トレード」によって、4カ月間で2億3000万ドルにも及ぶ荒稼ぎを行ったのです。
1987年に『ソロスの錬金術』を出版する頃になると、ジョージ・ソロスは哲学や慈善事業にあてる時間を増やすため、ファンドの運用を託す後継者を探すようになります。ところが、その功績が偉大なだけに、投資判断を任せられるファンド・マネージャーはなかなか見つからず、後継者が何人も入れ替わる状態が続きました。
◆スタンレー・ドラッケンミラー、ソロスから学んだもの
後継者として白羽の矢が立ったのがスタンレー・ドラッケンミラーでした。自らのファンドを運用しながら、ドレイファス・ファンドの責任者でもあったドラッケンミラーは1988年、ビクター・ニーダーホッーファーの後任としてクォンタム・ファンドを任されます。
ドラッケンミラーは、フルネームをスタンリー・フリーマン・ドラッケンミラーといい、1953年に米ペンシルベニア州のピッツバーグで生まれています。大学を卒業後はピッツバーグ国立銀行で石油アナリストとして働き、1981年に自らのファンドであるデュケイン・キャピタルを設立。その後、ドレイファスでコンサルタントを務め、やがてはその責任者となりますが、『ソロスの錬金術』を読んで感銘を受け、ソロスの下で働くことを決意します。その後、ドラッケンミラーは12年間にわたってクォンタム・ファンドの運用を担うこととなります。
ドラッケンミラーは企業の財務分析は得意ではありませんでしたが、株式や為替、金利といったマーケットに対する感覚には鋭いものがありました。それは企業経営者らと頻繁に対話を重ねることで景気動向のシグナルを逸早く察知し、そのシグナルをマーケットに対する感覚にフィードバックさせていたためと考えられます。
また、ファンダメンタルズの変化がマーケットに反映されるタイミグを測るために、テクニカル分析も用いていました。このファンダメンタルズとテクニカルを融合させた市場分析の手法は、ソロスも似たアプローチを採用していたと言われています。
ドラッケンミラーは各国の政府や中央銀行がどのように考え、どのように行動するかを理解すること、あるいはリスクの少ない投資機会を生む制度的な要因を探し当てることにも優れていました。
ドラッケンミラーはソロスの下で、株式のロング・ショート戦略やレバレッジを効かせた債券や為替のデリバティブ・トレードなどを実践していきます。しかし、何よりも学んだことは、自分が正しいと分かっているときに、然るべきタイミングが来たら、躊躇なく持てるものを全てつぎ込んで勝負しに行く、という運用者としての姿勢でした。これらを総括したトレードが1992年の英国のポンド危機だったと考えられます。
◆ポンド危機、ヘッジファンドの歴史的な勝利
当時は欧州共同体(EC)が、通貨統合に向けて域内通貨間の変動を抑えるERM(欧州為替相場メカニズム)を導入していました。しかし、1990年の東西ドイツ統合によって西から東への投資が増え、インフレも懸念もされたため、ドイツは利上げを行っていました。一方で、ERMに加盟している他の欧州諸国は景気が悪く、低金利を維持します。このため、これらの国々の通貨は売られ、ドイツ・マルクが買われるという構図になります。
特にイタリア・リラと英国・ポンドはERMによって定められたレンジの下限に張り付くような状態でした。これらの通貨をレンジ内に収めておくためには、ドイツが利下げするか、イタリアや英国が利上げするか、あるいはその両方を行うといった通貨間の金利調整が必要になります。
しかし、過去にハイパーインフレを経験したドイツに利下げの選択肢はなく、景気の悪いイタリアにも利上げの可能性はありませんでした。英国に至っては住宅ローン金利のほとんどが変動型であったため、利上げは家計を直撃することから「もってのほか」と考えられたようです。となると、各国中央銀行の為替介入でレンジ内に収めることになりますが、それができなければ両国は通貨を切り下げ、ERMから離脱することになってしまいます。
まずイタリア・リラが投機筋のターゲットになり、通貨切り下げを余儀なくされました。このとき英国は100億ECU(統一通貨ユーロの前身としてECおよびEUで使われていたバスケット通貨、およそ140億ドル)を借り入れて、通貨防衛を行うと胸を張っていました。ところが、クォンタム・ファンドは手元資金に10倍のレバレッジをかけ、150億ドル相当のポンド売りを仕掛けようとしていたのです。
しかし、いくら売ろうとしても買い手がいなければ売れません。クォンタム・ファンドがポンド売りを仕掛け始めると他の市場参加者も追随したため、最後は英国の中央銀行であるイングランド銀行ぐらいしか買い手がいなくなり、結局は100億ドル程度までしか売れませんでした。追い詰められた英国は通貨防衛のために緊急利上げも実施しますが、それでもポンド安は止められず、遂には通貨を切り下げ、ERMから離脱して変動相場制への移行を余儀なくされます。これによってクォンタム・ファンドが得た利益は10億ドル以上だったと言われます。
このポンド危機は水曜日に起きたことから「ブラック・ウェンズデー」と称されますが、別名「ホワイト・ウェンズデー」とも呼ばれています。ドラッケンミラーはここでもきっちりと収益を上げていたのです。(敬称略、後編につづく)