サード・ポイントのダニエル・ローブ(前編)―デリバティブを奏でる男たち【15】―

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◆アクティビストではなく、イベント・ドリブン!?


 第15回は前回の『アパルーサ・マネジメントのデビッド・テッパー(後編)』で触れたサード・ポイントのダニエル・ローブを取り上げます。彼が創設者兼CEO(最高経営責任者)を務めるサード・ポイントは2021年6月現在、約170億ドルの運用資産を保有しています。

 前回に同社を「ソニーグループ <6758>やセブン&アイ・ホールディングス <3382>などの株主として登場したことから日本でも有名になったアクティビスト(物言う株主)ファンド」と紹介しました。恐らく日本ではそのような認識が一般的かと思われます。


ソニーG<6758>とサード・ポイントの動向
出所:各種報道、週次データ

 しかし、ローブ自身は、サード・ポイントを特定の運用スタイルに特化したヘッジファンドとして定義しているわけではありません。むしろ、株式や債券など、あらゆる資本構成のなかで、産業や地域の枠を越えて機会があれば投資していく、という柔軟なアプローチを常に持ち続けています。

 サード・ポイントは基本的にイベント・ドリブン型のヘッジファンドと考えられ、大きなリターンを生み出す企業のイベント・パターンを、財務面から見出そうとします。しかも、ボトムアップだけでなく、2008年以降は公共政策にも注目し、政策変更時の影響を予測しながら売りと買いのチャンスを見出す、といったトップダウンのアプローチも実行しているのです。

 また、自分が投資している企業の幹部に向けて洞察に富んだ、あるいは辛辣な内容の手紙を送りつけ、場合によってはそれを公表することでも有名であり、業績の悪い企業やその要因となっている経営幹部にとっては恐るべき存在であることも事実です。特に彼のメッセージが公表されるとマスコミがこぞって書き立てることが多く、そのためアクティビストのイメージが定着したのかもしれません。
 

◆生い立ち


 1961年生まれのダニエル・セス・ローブ(通称ダン・ローブとも言う)はカリフォルニア州サンタモニカで育ちました。彼の叔母にあたる東欧系ユダヤ人のルース・ハンドラーは、バービー人形でお馴染みの米国を代表する世界最大級の玩具メーカー、マテル<MAT>の共同創業者であり、バービー人形は彼女が中心となって考案されたと言われています。

 こうした縁で法律事務所のパートナーだった彼の父親は、30年以上もマテルの社外取締役を務め、一時は同社の社長に就任したこともありました。そのため、彼はかなり裕福な幼少期を過ごしたものと想像されます。

 ローブは同州ロサンゼルスのパリセード・チャーター高校を卒業後、カリフォルニア大学バークレー校に入学します。しかし、ウォール街でのキャリアを目指すべくコロンビア大学に編入し、そこで経済学の学位を取得しました。このときの同級生がバラク・オバマ元大統領であり、2008年米大統領選挙ではその前年から、ローブはいち早くオバマ大統領候補を支援します。

 しかし、オバマが政策として「成長ではなく再分配」を打ち出すと、誰よりも早く反論し、その内容は米紙ウォール・ストリート・ジャーナルの1面を飾るほどのものでした。

 となると、「分配」を最優先政策として掲げる政権が選挙で絶対安定多数を確保する日本とは、ローブの眼にはどのように映り、如何なる投資判断が下る国なのでしょうか。
 

◆投資ならびに金融業界でのキャリア


 ローブは高校時代から株式投資を始め、大学時代に12万ドルも儲けていましたが、ピューリタン・ベネットという医療呼吸器メーカーへの投資で全てを失ってしまいます。この失敗はローブに「ポジションを集中し過ぎること」についての教訓を与えました。

 大学を卒業した後は職を転々とします。1984年からプライベート・エクイティ(PE、未公開株)投資会社のウォーバーグ・ピンカスで3年ほど働きましたが、その後にレコード会社であるアイランド・レコードへ転職。しかし再び、ヘッジファンドのラファー・エクイティ・インベスターズでリスク・アービトラージ(上場企業間のM&Aに伴う裁定取引)・アナリストとして働き始め、金融界へと復帰します。


リスク・アービトラージの概念図

 1991年には米金融サービス会社ジェフリーズのディストレス債(経営破綻先や不良債権先などが発行する債券)部門のリサーチアナリスト兼セールスとして入社、後に上級副社長に就任しました。このときにローブは、デビッド・テッパーがゴールドマン・サックス・グループ<GS>を辞めて、新しく自分のファンドを設立するという噂を聞きつけます。さっそくローブは、テッパーの自宅を訪れて強力に自分を売り込みます。そして、遂にはテッパーを最大のクライアントにし、自らをテッパーにとって最高のセールスマンになった、とまで語っています。

 1994年から95年まで米シティグループ<C>の副社長に就任。ハイイールド債(格付けがBB+以下の投資不適格債券)のセールスを担当した後、いよいよ自らヘッジファンドを立ち上げます。元々サーファーであったローブは、慣れ親しんだマリブビーチのサーフィン・スポット「サード・ポイント」を社名にしました。

 前回も触れた通り、設立当初は、テッパーのファンド、アパルーサのオフィス内に席を借ります。オフィス内と言っても、テッパーがウェート・トレーニングする部屋の隅に月1000ドルを支払って中古の机を置いただけのものでした。

 当時はファンド設立について今より規制が緩く、経費も安く済みましたが、資金集めには苦労したようです。ましてファンド・マネージャーでなく、セールスだったローブは1億ドルの資金を集めるのに5年の歳月を要した、といいます。(敬称略、後編につづく
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。