◆講義内容・トレード・スタイル
今回は、タートルズというトレーダー養成実験を行ったことで有名なリチャード・J・デニスを取り上げています。タートルズの実験では、1000人を超す応募者の中から最終的には多種多様な10名程度が選抜されました。彼らが受けた講義はトレーディングのノウハウが中心でしたが、その重要な知識はデニスではなく、デニスの高校以来の友人であり、一緒に実験を始めたトレーダー仲間のウィリアム・エックハート(通称ビル・エックハート)が教えたものです。
その教えとは、「トレンド・フォロー(順張り投資)」というトレード・スタイルでした。この手法は1960年代前後に活躍した米国の商品先物トレーダー、リチャード・ダウド・ドンチアン(1905-1993)によって開発されたのが始まりといわれています。価格が一定期間の高値を上に抜けたら買いポジションを持ち、一定期間の安値を下回ったら売りポジションを持つ、といった相場の流れに沿う売買が基本です。これに対して、上がったら売りポジションを持ち、下がったら買いポジションを持つトレード・スタイルを「コントラリアン(逆張り投資)」といいます。
トレンド・フォローは、日本でも昔から注目されていました。古くはボックス圏の値動きを「通い相場(往来相場)」、保ち合いから放れてトレンドが形成される値動きを「運び相場」と言っていました。18世紀の出羽国庄内藩(現在の山形県酒田市)出身の米商人で、稀代の相場師であった本間宗久の口伝書「本間宗久翁秘録」でも、通い相場について「相場保ち合いのとき、うっかり慰みに商い仕掛けることあり。はなはだよろしからず。慎むべきなり」とあります。保ち合い相場で慰みに行う仕掛けは確たる相場観に基づくものではない場合が多く、目先の値動きに惑わされやすくなります。また、それで得られる利益は知れている一方、それなりにリスクを背負うことから厳に慎むべき、と戒めています。そして相場の大きな流れだけを見て、運び相場のシグナルとなる「保ち合い放れにはつけ」とし、投資方針を決めたら、目先の小さな価格変動に一喜一憂するな、というのがその教えです。タートルズのトレード・スタイルは、まさに「保ち合い放れにはつけ」を地で行くものでした。
◆講義内容・リスク管理手法
また、ポジションのサイズも明確に決められており、1つのポジションで許容されるリスクは運用資金の2%までとなっていました。このリスクは投資対象の値動きによって決められ、(1)当日の高値から安値までの値幅、(2)前日の終値から当日の高値までの値幅、(3)前日の終値から当日の安値までの値幅のうち、一番大きい値の20日間平均(この値をタートルズではNと呼んでいました)としました。例えば運用資金が1億円だとすれば、1回の取引で取れるリスクは200万円までです。価格2000ポイントの東証株価指数(TOPIX)先物のNが20ポイントだとして、ストップロス・ポイントをN×2とした場合(つまり買い値から40ポイント値下がりしたら損切り)、同先物の取引単位は指数の1万倍ですから、買う枚数は5枚(=200万円÷40ポイント÷1万倍)となります。
加えて、「ピラミッディング」という手法も用いられました。これは買った後に値上がりしたら更に買い乗せするという手法です。タートルズではピラミッディング・ポイントをNとしており、上の例で言えばTOPIX先物を買った後、20ポイント値上がりしたら、さらに5枚買い乗せし、ストップロス・ポイントも1960ポイントから1980ポイント(=2020ポイント-40ポイント)に引き上げます。ただし、1つの投資対象に対して、買い乗せによって許容される最大リスクを運用資金の10%程度としていました。また、この手法で負けが続くと、すぐに運用資金が底をついてしまうので、運用資金が10%減るごとに取れるリスクを2割減らすといった方法も用いられました。
このように候補生が教わったのは、ファンダメンタルズを一切無視したテクニカル・トレーディングとリスク管理手法のみでしたので、講義日程はわずか2週間で終わり、すぐに運用資金が割り当てられ、実践することになりました。ただし、この手法ではトレードするたびに損失となることが多い一方で、一旦トレンドが発生すれば過去の損失を全て取り戻して余りある大きな利益につながる、といった状態を繰り返すことになりがちです。当然、損失が続く期間は精神的に追い込まれやすくなります。また、売買のシグナルが出ないと「何日もすることがほとんど何もない」といった状態になり、これはこれで精神的に辛いことと想像されます。加えて、トレード期間が長くなると、同じ手法を用いてもトレーダー間で運用成績に違いが出てきます。そのせいでしょうか、途中で運用資金の追加がなされましたが資金配分には差があり、その基準が明確に伝えられていなかったことも、タートルズのストレスとなっていったようです。しかし、タートルズは教えられた通りの運用スタイルを貫き、高い投資収益を稼ぎ出して、「トレーダーは養成が可能である」ことを証明しました。
◆突然の終焉、その後
ところが、この実験は1988年に突然、終わりを迎えます。デニスが政治活動に打ち込むため、トレーダーを引退すると宣言したためでした。もちろん、この背景には1987年のブラックマンデーが引き金となった運用成績の不振が関係していた、との見方もあります。当時、デニスは「ジャンク・ボンドの帝王」といわれたマイケル・ミルケン率いるドレクセル・バーナム・ランバート(1990年に経営破綻)のファンドを運用していましたが、運用成績の悪化により清算することになりました。ドレクセルでは1986年に発覚したインサイダー取引事件を皮切りに次々と問題が起こり、多額の損失を支え切れなかったようです。当時の様子は以下をご参照ください。
▼プライベート・エクイティの巨人、アポロ・グローバル(前編)―デリバティブを奏でる男たち【33】
https://fu.minkabu.jp/column/1546
デニスの引退とともにタートルズも解散され、それぞれの道を歩むことになりますが、そのうちの何人かは引き続きトレードで稼ぎ続けました。
また、1990年代初めにも同様の実験が行われたといわれています。これは第46回で取り上げた伝説の商品ヘッジファンド、コモディティーズ・コーポレーションの依頼により、デニスとエックハートが講師となって、コモディティーズの社員ら30名程度を対象に、4日間の講義日程で行われ、運用資金はコモディティーズが提供したようです。
▼コモディティーズ・コーポレーション(前編)―デリバティブを奏でる男たち【46】―
https://fu.minkabu.jp/column/1800
▼コモディティーズ・コーポレーション(後編)―デリバティブを奏でる男たち【46】―
https://fu.minkabu.jp/column/1808
なお、デニスは1994年に復帰を宣言し、弟とともにデニス・トレーディング・グループという運用会社を立ち上げました。その後に高い運用成績を叩き出しますが、2000年に再び成績が悪化。運用資産の半分以上を失ってしまい、再び引退しています。(敬称略)