デリバティブを奏でる男たち【56】 偉大なる投機家経済学者ケインズ(前編)

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◆ケインズ経済学の創始者



 前回は近代経済学の創始者であり、英国古典経済学派の泰斗として評価され、『経済学および課税の原理』(1817年初版)の著者としても有名なデイビッド・リカード(1772-1823)を取り上げました。

 今回は同じく経済学者であり、『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)を著したケインズ経済学の創始者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)を取り上げます。ケインズの大学時代の恩師であり、「マーシャルのk」でお馴染みのアルフレッド・マーシャル(1842-1924)は、リカードの影響を強く受けています。「マーシャルのk」とは、通貨供給量(マネー・サプライ)を名目国民所得で割った比率のことであり、マーシャルがその著書『貨幣、信用及び商業』(1923)で提唱したものです。適正なマネー・サプライを決定する指標のひとつとして、金融政策の上で重要な概念とされていました。

 このような経緯からはケインズも、リカードが唱え、マーシャルが心酔した古典派経済学に傾倒していくところなのでしょうが、ケインズはこれを不完全なものと考え、古典派経済学を論破する対象とみなしました。時代は大きく異なりますが、リカードはケインズにとって大きなライバル的存在だったようです。それは経済学者としてのみならず、投資家としても同様だったのではないでしょうか。また、ケインズは、第51回で取り上げた伝説の投機王ジェシー・ローリストン・リバモア(1877-1940)とほぼ同世代であるといえるでしょう。リバモアや当時の時代背景に関しては、以下をご参照ください。

▼投機王ジェシー・リバモア(前編)―デリバティブを奏でる男たち【51】
https://fu.minkabu.jp/column/1882

▼投機王ジェシー・リバモア(後編)―デリバティブを奏でる男たち【51】
https://fu.minkabu.jp/column/1888

 ケインズは、1883年にイギリスのイングランド東部に位置するケンブリッジで生まれました。生家は中流以上・上流未満となるアッパーミドルクラスであり、彼の父親はケンブリッジ大学で道徳科学を教える経済学者(もともと経済学は道徳科学から派生した学問と考えられます)でした。ちなみに、アルフレッド・マーシャルもケンブリッジ大学の教授であり、父親の友人だったようです。

 ケインズは子供の頃から身体が弱かったものの、数学に秀でた才能を持っており、1897年に全寮制の名門イートン校の奨学金(キングス・スカラシップ)を獲得します。1902年にケンブリッジ大学キングス・カレッジへ入学。数学を専攻しますが、次第に経済学に興味を抱くようになりました。

 1906年に文官試験に挑戦。得意だった数学と経済学の結果が思わしくなく二位で合格します。そのため、第一志望の大蔵省をあきらめ、次いで地位の高いインド省を選択しました。しかし、そこは古き良き時代の名残が強く、旧態依然とした部署だったためか、わずか1年半で退官。その後は大学に戻って経済学の講師をしたり、『エコノミック・ジャーナル』という学術雑誌の編集者をしていました。ちなみに、編集者の仕事は亡くなる前年まで続けています。

 1914年、第一次世界大戦の勃発により大蔵省から声がかかり、ケインズは戦時の金融問題の解決に中心的な役割を果たしていきます。戦後は大蔵省の首席代表としてパリ講和会議にも出席しました。しかし、不当で非現実的な対独賠償(戦争前のドイツ国内総生産の2.3倍にあたる320億ドル相当)交渉に愛想をつかし、1919年に再び退官を決断します。この賠償交渉に対する警告と是正を求めて出版した『平和の経済的帰結』がベストセラーとなり、ケインズに多額の収入をもたらしました。

 その後は複数の保険会社で役員として働きながら、幾つかの投資会社の設立にも関わり、彼の代表的な著書である『雇用・利子および貨幣の一般理論』も書き上げます。
 

◆山あり谷ありのトレード


 ケインズは昔からギャンブル好きで、大蔵省時代も為替を中心にトレードを行っていましたが、退官後は大量の米ドル買い・独マルク売りを仕掛けます。不当な戦後賠償の支払いのため、ドイツが大量のマルクを発行することでマルクが暴落する、とにらみました。こうしたトレード手法は、今で言うグローバル・マクロ戦略といえるでしょう。ところが、マルクが対ドルで一時的に急騰したために大きな損失を被ります。破産寸前まで追い込まれてしまい、父親などに支援を求めたようです。しかし、それで諦めるケインズではありませんでした。再びマルク売りを仕掛け、マルク暴落で財を成します。
 
 また、商品や株式もトレードするようになり、1929年には資産の8割を株式に投資しますが、同年の大恐慌による株価暴落をまともに食らってしまいます。受けたダメージはあまりに大きく、当時会長をしていた英ナショナル・ミューチュアル生命保険協会(2002年に株式会社化し、GEキャピタルへ事業譲渡)の1931年に実施された取締役会において、同覚書には「しばらく静かにしていましょう」と書いたほどです。もっとも、同年にケインズは米フーバー大統領に招かれ、大恐慌からの経済的な脱出方法について様々なアドバイスを提供していたようです。この処方箋が前出の『雇用・利子および貨幣の一般理論』だったと言われており、2008年のリーマン・ショック以降の景気回復時にも活用されることになります。

 その後にトレードのパフォーマンスは順調な回復をみせ、1936年にかけて大きく資産を増やしますが、1937年と1938年の暴落で再び資産は縮小してしまいました。このときケインズは心臓発作を起こして倒れてしまいます。何とか一命を取り留めたものの、その後は心臓に悪い為替や商品の投機からは遠ざかるようになり、次第に短期的なトレードから、個別企業の財務内容や業績、経営などをじっくり吟味した長期の株式投資へと転換していきました。つまり、トップダウンからボトムアップに投資思考を変えたといえます。そして、中小型の割安株に集中投資するバリュー株戦略で成功しました。しかし、再び心臓発作に襲われ、1946年に62歳でその生涯を閉じます。このときの遺産は45万ポンド、当時の日本円にして約4.5億円との試算があります。

 さて、後半ではケインズが保険会社や投資会社の役員として、どのような投資手腕を発揮したのかをみていきたいと思います。(敬称略、後編につづく)
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。