前回はスタートアップのヘッジファンドとして過去最大の資金を集めたマイケル・ロバート・ゲルバンド率いるエクソダスポイント・キャピタル・マネジメントについて解説しました。今回はエクソダスポイントが設立されるまで、立ち上げ時の運用資金で過去最大を記録していたスタートアップ・ヘッジファンドであったジャック・リーダー・マイヤー(Jack Meyer)率いるコンベクシティ・キャピタル・マネジメントを取り上げます。同社は2006年の設立の際に63億ドルもの運用資金を集めました。これほどの資金が集まった背景には、ゲルバンドと同様にマイヤーが高い運用成績(トラック・レコード)を誇っていたから、だと考えられます。
◆ロックフェラー財団の元会計係から大学基金のCEOへ
1940年代の半ばに生まれたマイヤーは、米オハイオ州のデニソン大学で理学士号を取得した後、米ハーバード・ビジネス・スクールでMBA(経営学修士)を取得しました。卒業後は、米投資コンサルタント会社ライオネル・D・エディ(1978年に米マニュファクチャラーズ・ハノーバー・トラストが買収。1991年にケミカル銀行がマニュファクチャラーズを買収した後、チェース・マンハッタン銀行との合併を経て、現在はJPモルガン・チェース)や米投資銀行のブラウン・ブラザーズ・ハリマンで働きます。ニューヨーク市役所の職員となり、市の年金基金や市債償還用資金を運営する減債基金、市の収入を運営する財務基金など200億ドルを運用管理する副責任者を務めていたこともありました。その後は、ロックフェラー財団で会計係兼最高投資責任者(CIO)を務め、200億ドル相当の財団の基金を管理します。
彼が母校であるハーバード大学の寄付金や年金を運用するハーバード・マネジメント社の最高経営責任者(CEO)に就任したのは1990年のことでした。当時の運用資金は48億ドルでしたが、これを彼は15年間で4倍に成長させて注目されるようになります。彼は、債券のオプションおよびオプション関連市場においてミスプライスを探して裁定を効かせるといったデリバティブ戦略や、木材販売でキャッシュフローを得る森林投資といったオルタナティブ戦略など、他の大学の基金とは大きく異なる運用スタイルを展開していました。
ところが、彼や彼の下で働いている投資マネージャーの報酬額をめぐり、卒業生や大学側から批判の声が上がります。2005年の報酬額ではマイヤーの600万ドル(1ドル=110円として6.6億円)を含め、上位6人が都合5680万ドル(同62.48億円)を受け取っていました。さすがに大学の学長よりも報酬額が多いのはいかがなものか、ということのようです。ちなみに、当時の学長は元米財務長官のローレンス・ヘンリー・サマーズでしたが、彼は一部の教員との争いの末、2006年に学長を辞任し、第22回で取り上げたデービッド・エリオット・ショー率いるD.E.ショー・アンド・カンパニーの非常勤取締役に転じました。
▼クォンツ投資の先駆者D.E.ショー(前編)―デリバティブを奏でる男たち【22】―
https://fu.minkabu.jp/column/1343
▼クォンツ投資の先駆者D.E.ショー(後編)―デリバティブを奏でる男たち【22】―
https://fu.minkabu.jp/column/1344
◆多過ぎると批判を浴びた割安な報酬額
確かに、彼らの報酬額は大学関係者として異常に高かったのかもしれません。しかし、当時の民間金融機関においてこれだけ稼げるのであれば、数千万ドルの報酬額も法外なものではなかったようです。このような金融業界の相場を考慮すると、彼らは非常に割安な報酬で稼いでいたわけです。にも関わらず多過ぎると批判されるのであれば、居場所を変える必要がありました。マイヤーは国内債マネージャーのデビッド・ロス・ミッテルマン(1954-2017)や外国債マネージャーのモーリス・レジナルド・サミュエルズのほか、新興国債マネージャーのエドワード・ヴィトー・デノーブル、チーフ・リスク・オフィサーのマイケル・シメオン・プラドコらとともに退任し、コンベクシティを立ち上げます。
社名のコンベクシティとは、債券の価格動向を説明する際に用いられる金融用語です。金利が変化する際に債券価格がどれくらい変化するのか、その割合を示すのがデュレーションです。しかし、このデュレーションを使って説明される債券価格は、実際の債券価格と異なり、その差は金利変動が大きくなればなるほど広がっていきます。それは金利の変化に対する債券価格の変化が直線的ではなく曲線的だからなのですが、この誤差を補う際に用いられるのがコンベクシティです。マイヤーらは、この誤差によって生じるミスプライスを利用して、裁定を効かせていたのではないかと想像されます。
一方、トップマネージャーやCEOらがまとまっていなくなったハーバード・マネジメントは抜け殻のようになってしまったわけですが、その穴を早急に埋めるべく調査委員会が設けられました。このメンバーには学長のサマーズやサマーズの元上司で大学理事のロバート・エドワード・ルービン元財務長官、キャピタル・リサーチ・アンド・マネジメント社(キャピタル・グループ・カンパニーズ社の主要子会社)の社長兼取締役で「投資界の第一人者」といわれたジェームズ・フレデリック・ローゼンバーグ(1946-2015)、米名門投資銀行ゴールドマン・サックス・グループの投資銀行部門責任者スティーブン・M・ヘラー(通称マック・ヘラー)など、名立たる人物が名を連ねます。
協議の結果、世界最大級の債券アクティブ運用会社PIMCO(パシフィック・インベストメント・マネジメント・カンパニー)で、マネージング・ディレクター兼新興市場ポートフォリオ・チームの責任者をしていたモハメド・アリー・エラリアンをマイヤーの後任に指名しました。エラリアンはハーバード・マネジメント社のCEOに就任しますが、この多過ぎる(割安な)報酬額問題が災いしたのか、わずか20カ月後にCEO兼共同CIOとしてPIMCOに戻ってしまいます。
その後も様々な人物がハーバード・マネジメント社のCEOに就任しますが、この問題はしばらく尾を引きました。止むを得ず同社では、問題解決のために時間をかけて、社内での運用を少しずつ減らして職員を半減させる一方、スピンアウトした元の運用担当者に外部委託する方向に舵を切ります。もちろん、マイヤーらのコンベクシティにも5億ドルの運用を委託しますが、次第にコンベクシティの運用成績が悪化し始めました。一体、何があったのでしょうか。(敬称略、後編につづく)