前回は、英国の老舗上場投信運用会社、アセット・バリュー・インベスターズ(AVI)を取り上げました。今回は同様に日本で活発に投資活動とエンゲージメント(建設的な目的をもった投資先との対話)を行っているダルトン・インベストメンツを取り上げます。
同社はダルトンのほかに、ニッポン・アクティブ・バリュー・ファンド(NAVF)やNAVFセレクトといった名義で、2024年に入ってからも盛んに大量保有報告書を提出しています。2023年3月末現在で40億ドルを運用している同社は、1999年にジェームズ・バノー・ローゼンワルド3世(James B. Rosenwald III)、スティーブン・D・パースキー(Steven Persky)、フランク・マリオン・ギフォード・コムズ(Gifford Combs)の3人によって創設され、現在の同社会長であるベリタ・オングも創設時に社外取締役として加わっています。
◆ローゼンワルド
ローゼンワルドは1958年に米ニューヨーク州で生まれます。彼は祖父から投資について多くのことを学んで育ちました。祖父は「バリュー投資の父」といわれ、ウォーレン・バフェットの師匠であったベンジャミン・グレアム(1894-1976)の会社、グレアム・ニューマン・コーポレーションでアナリストとして働き、後に日本の証券会社のニューヨーク支社に転職しました。
ローゼンワルドは全米屈指の私立学校であるダルトン・スクールに通い、そこで後に共同経営者となるパースキーと出会います。社名のダルトンは、同校が由来になっているようです。ローゼンワルドは1980年に米ヴァッサー大学で経済学士を、1984年にはニューヨーク大学経営大学院でMBA(経営学修士)の資格を取得しました。在学中は祖父と同じ日本の会社でインターンを経験しています。卒業後はスイス系の金融グループ傘下の証券会社、スターリング・グレイス・コーポレーションで投資業界でのキャリアをスタートさせました。
その後、「イングランド銀行を負かした男」として知られる著名投資家、ジョージ・ソロスが率いたソロス・ファンド・マネジメントの外部アドバイザーになりました。1992年にスペンサー・ニコラス・ロディティとともにローゼンワルド・ロディティ・アンド・カンパニー(現在のロビダ・アセット・マネジメント)を設立し、ソロスのアドバイザー業務を続けます。ロディティは、第3回で取り上げたスタンレー・ドラッケンミラーを除けば、ソロスから最も信頼された投資アドバイザーだったといわれています。ドラッケンミラーについては以下をご参照ください。
▼クォンタムのスタンレー・ドラッケンミラー(前編)―デリバティブを奏でる男たち【3】―
https://fu.minkabu.jp/column/965
ローゼンワルド・ロディティは、アジアの保険会社に特化したファンドや、VOCファンド(17~18世紀にオランダ東インド会社が活動していた地域を投資対象とする汎アジアファンド)、あるいはボリス・ニコラエヴィチ・エリツィンが初代大統領となったロシアに投資するRRロシア・ファンドや、ロディティの出身地である南アフリカに投資するファンドなど、アジアや新興国に特化したファンドを次々に立ち上げました。1997年にはビーチ・フロント・プロパティーズという不動産会社も立ち上げ、米国や中国、ドイツの住宅・商業用不動産に投資するなど、チャンスがあれば積極的に投資していたようです。しかし、1999年にローゼンワルドは、ロディティから離れてダルトン・インベストメンツを設立します。
◆パースキー
ダルトンの共同経営者のひとりであるパースキーは、ダルトン・スクールで出会ったローゼンワルドと、ほぼ同い年と推測されます。パースキーは米ハーバード大学に進学し、もうひとりの共同経営者となるコムズと同級生になりました。アジア研究学を専攻したパースキーは中国語を勉強し、2年生の時に台湾で仕事をします。
1980年に中国で1年間、英語の教師をした後、米国に戻ってシティバンク(シティグループ傘下の銀行)で働きます。しかし、配属先が国内の融資業務担当であったため、自分のキャリアが生かせないとの思いがあったようです。もっとも、ここで教わったキャッシュフローに集中する融資担当者向けの教育プログラムは、後のパースキーの投資スタイルの確立に大きく役立ちました。1985年には米名門投資銀行だったソロモン・ブラザーズ(※)へ転職し、同社の東京支店で働きます。後年、彼は80年代後半の日本のバブルなど、アジアで好況と不況のサイクルを何度か目の当たりにしたことが、その後の仕事に生かされたとしています。(※ソロモン・ブラザーズは1997年にトラベラーズ・グループに買収され、翌年にトラベラーズはシティコープと合併してシティ・グループとなる)
パースキーは1989年に配属先が変わり、ニューヨークに戻って債券トレーダーの仕事に従事します。当時はジャンクボンドの帝王といわれた、投資銀行ドレクセル・バーナム・ランバートのマイケル・ロバート・ミルケンが、蚊帳の外であったハイイールド債券(非投資適格債券、通称ジャンクボンド)市場を、大規模なM&Aのための資金調達メカニズムへと成長させます。債券部門を中核事業とするソロモン・ブラザーズも、同市場での存在感を高めるために人材を増強していました。
しかし、パースキーは翌年にソロモン・ブラザーズを退職し、1991年には機関投資家向け債券運用会社である米ペイデン・アンド・ライジェルにポートフォリオ・マネージャーとして入社。そこで8年近く働き、資金管理とポートフォリオ構築についてのノウハウを身に付けます。この間にアジア通貨危機が発生し、多くのアジア企業のドル建て債券の価格が暴落しました。1998年にパースキーはローゼンワルドからアジアのディストレスト債のポートフォリオ管理を依頼され、1999年にダルトンの創設に加わります。アジア通貨危機につきましては以下で簡単に触れていますので、ご参照ください。
▼1998年 LTCM(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/668
◆コムズ
ダルトンのもうひとりの共同経営者であるコムズは、ハーバード大学で出会ったパースキーと、ほぼ同い年と推測されます。ハーバードを卒業後、彼は英ケンブリッジ大学で経済学と政治学の修士号を取得しました。卒業後の1984年に、ウォーレン・バフェットの元弟子が創設した米投資会社であるパシフィック・ファイナンシャル・リサーチに入社し、キャリアをスタートさせます。ここで彼は「まず、お金は常に危険にさらされているという考えから始める」「一番大事なのは、自分の資産を守ること」という投資哲学を学び、公正価値よりも割引価格で優良企業を購入し、公正価値に近づいたら売却する、という投資スタイルを身に付けました。
1998年にコムズは、パースキーの紹介で知り合ったとみられるローゼンワルドから、彼が立ち上げたパシフィック・アンド・ジェネラル・インベストメンツのポートフォリオ管理を依頼されます。1999年にダルトンが創設される時には、創設のメンバーとなって同ファンドの運用を引き継ぎました。(敬称略、後編につづく)