前回は、日本で活発な投資活動とエンゲージメント(建設的な目的をもった投資先との対話)を行っているダルトン・インベストメンツを取り上げました。今回は、同社の共同創設者のひとり、ジェームズ・バノー・ローゼンワルド3世が一時は共に働いていた、スペンサー・ニコラス・ロディティ(Spencer Nicholas Roditi:ニック・ロディティ)を取り上げます。
ロディティがローゼンワルドとともにローゼンワルド・ロディティ・アンド・カンパニー(現在のロビダ・アセット・マネジメント)を設立し、「イングランド銀行を負かした男」として知られる著名投資家、ジョージ・ソロスのアドバイザー業務を行っていたことは、前回に紹介した通りです。しかし、ロディティはマスコミに登場することを極端に嫌っており、彼のことが頻繁に報じられた1990年から2000年頃を除けば、メディアで取り上げられることはほとんどなく、今では知る人ぞ知る伝説の投資家といえるでしょう。
◆ロスチャイルド・コネクション
ロディティは1945年に、アフリカ大陸の南部に位置する旧イギリス植民地、ローデシア(1980年にジンバブエ共和国として独立)で生まれました。ローデシアに隣接していたトランスヴァール(1852年に独立したものの、1902年に現在の南アフリカ共和国の一部となります)は、第77回で取り上げたアセット・バリュー・インベスターズ(AVI)が運営している上場投資信託、AVIグローバル・トラストの創設当初の投資対象地域です。
ロディティは地元の寄宿男子校であるピーターハウス・ボーイズスクールを1963年に卒業した後、南アフリカで法律を学び、ロンドン市立大学でビジネスを学びました。1969 年には商業銀行だった英シュローダーズ(現在は資産運用を中心業務とする金融コングロマリット)に入社し、シュローダーズ証券の設立に貢献します。その過程で彼は初めて日本を訪れ、海外から見れば当時は非常にエキゾチックだった日本の株式や債券に興味を持つことになります。
1980年代になるとロディティは、ロスチャイルド家の英国当主であるナサニエル・チャールズ・ジェイコブ・ロスチャイルド(第4代ロスチャイルド男爵、1936-2024年)の下で働き始めます。英上場投資信託であるRIT(ロスチャイルド・インベストメント・トラスト)キャピタル・パートナーズや英上場金融アドバイス会社のセント・ジェームズ・プレイスなど、英国ロスチャイルド家の金融関連会社に関わる投資事業の多くを手掛けました。
彼は当時から現場で何が起こっているのかを知るのが好きで、投資機会を嗅ぎつける度に、あちこちと広範囲に旅に出かけたようです。その姿勢はソロスのクォンタム・ファンドが創設された頃に共同で運営していたジェームズ・ビーランド・ロジャーズ・ジュニア(通称ジム・ロジャーズ)によく似ているといえるでしょう。ロジャーズもバイクや自動車で世界一周の旅を二回もしては投資対象を見つけていました。このようなロディティの投資スタイルは、様々な国の株式や債券、あるいは不動産などに投資するグローバル・マクロである、といった点もロジャーズやソロスに似ています。
さらにロディティは大きくレバレッジを効かせるタイプでした。そのため、投資パフォーマンスの変動が激しく、運用成績が芳しくないときは、非常に辛い立場に立たされていたようです。
◆ソロス・コネクション
1990年代になるとロディティは、ロスチャイルドの顧問をしていたニルス・オットー・フォン・タウベ男爵(1928-2008年)から、ソロスを紹介されます。エストニア出身のタウベは元々キットカット・アンド・エイトケンという英国の株式ブローカーで事務員をしていましたが、当時、過小評価されていたドイツ株への投資で名を馳せ、1951年にアナリスト、1969年にファンド・マネージャー、1975年に同社のシニアパートナーと急速に出世を果たします。1970年代に英国債市場の投資アイデアをソロスに紹介したことがきっかけとなり、タウベはクォンタム・ファンドの諮問委員会に招聘されました。
1982年にロスチャイルドがキットカットを買収し、タウベはロスチャイルドの主席投資マネージャーとなります。一説によると、ロスチャイルドは彼の運用手腕を手に入れるためにキットカットを買収した、といった穿った見方もあったようです。そうした経歴を持つタウベから紹介されたソロスはロディティに対し、市場で間違った方向に陥ったとしても、自分が正しいと思ったときは、ポジションを倍増するようにといったそうです。それからロディティはソロスへの貢献度を高めていきました。
1992年に英中央銀行であるイングランド銀行が英ポンド防衛に失敗したとき、第3回で取り上げたスタンリー・フリーマン・ドラッケンミラー(スタンレー・ドラッケンミラー)とともに、5億ポンド以上を稼いだソロスは、冒頭で示したように「イングランド銀行を負かした男」として知られるようになります。この年にソロスは1.6億ポンドをクォンタム・ファンドから切り離し、クォータ・ファンドを設立してロディティに運用を任せたようです。このファンドは4年後に運用資金が10億ポンドにまで膨れ上がりました。この功績からロディティは1996年に5200万ポンド、1997年には8200万ポンドの報酬を得て、当時の英国では2番目の高給取りとなりました。ドラッケンミラーについては、以下をご参照ください。
▼クォンタムのスタンレー・ドラッケンミラー(前編)―デリバティブを奏でる男たち【3】―
https://fu.minkabu.jp/column/965
しかし、1998年にロディティは運用を休止してしまいます。理由はロディティが「以前に健康上の問題を抱え、再発防止のため休養するよう申し出た」とのことですが、運用成績の悪化も影響していた可能性があります。同年の半ばまで+30%以上ものリターンを叩き出していた運用成績が、その5カ月後には-14%まで落ち込んでしまったからです。数カ月後に復帰したものの、2000年4月には引退を発表しました。このときはドラッケンミラーもITバブルの崩壊で巨額の損失を出したことから引退しており、ソロスはファンドの再編を余儀なくされたようです。(敬称略、後編につづく)