前回は英国でマルチ・ストラテジーを展開するアイスラー・キャピタルを取り上げました。同社は米名門投資銀行であるゴールドマン・サックス・グループ<GS>の天才といわれたエドワード・キリル・アイスラー(Edward Kirill Eisler)によって2015年末に創設されました。その経営陣だけでなく従業員の多くが元ゴールドマン・サックス出身ですので、ゴールドマンの別動隊ともいえる組織です。今回も同じくゴールドマン出身者で、オメガ・アドバイザーズを創設したレオン・G・クーパーマン(Leon G. Cooperman)を紹介します。
◆叩き上げのクーパーマン
クーパーマンは、1943年に米ニューヨーク市のサウス・ブロンクスで生まれました。彼の両親はポーランドからの移民ユダヤ人です。彼は幼いときから働いており、果物の計量や梱包、パンクしたタイヤの修理、劇場の案内係などの仕事に従事しました。大学は米国で最も歴史のあるニューヨーク市立大学のハンターカレッジに進学します。当初、クーパーマンは歯科医になるつもりだったそうです。化学専攻で3年かけて学士号を取得した後に歯学部に入学しましたが、8日目にして自分には向いていないと悟ります。そのため、大学の学長に嘆願して元の学部に戻してもらい、1964年に大学を卒業しています。
卒業後は印刷機器の製造販売会社である米ゼロックス<XRX>に入社しました。仕事は品質管理エンジニアで年収は7500ドルほどです。翌年にコロンビア大学ビジネススクールに入学し、MBA(経営学修士)を取得しました。ビジネススクールを卒業してすぐの1967年に、クーパーマンはゴールドマン・サックスに転職し、このときの年収は1万3000ドルへと跳ね上がります。
ゴールドマン・サックスでは投資調査部門で長く働き、同部門の担当パートナー、投資政策委員会の共同委員長、株式選択委員会の委員長を務めます。1989年には資産運用部門であるゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント(GSAM)の会長兼最高経営責任者(CEO)となり、オープンエンド型ミューチュアル・ファンドであるGSキャピタル・グロース・ファンドの運用を含む株式商品ラインの最高投資責任者(CIO)を務めました。クーパーマンは最終的にゴールドマン・サックスのゼネラル・パートナーにもなりましたが、1991年末に25年間勤めたゴールドマンを退職します。そして、すぐにヘッジファンドのオメガ・アドバイザーズ社を設立し、会長兼CEO兼CIOとなりました。同社の設立に際してクーパーマンは「成人してからずっと夢見てきたことだ」と語っています。
◆クーパーマンの投資スタイル
彼は常にバリュー投資に傾倒していました。「オマハの賢人」と称される米著名投資家のウォーレン・エドワード・バフェット(Warren Edward Buffett)、バフェットの師匠であるバリュー投資の父ベンジャミン・グレアム(Benjamin Graham、1894 - 1976)、グレアムと『証券分析』を共著したデビッド・L・ドッド(David LeFevre Dodd、1895 –1988)の弟子であると自称しています。しかし、多くのバリュー投資家とは異なり、長期的な過小評価だけでなく、短期的な過大評価にも着目して利益を得ようとしていました。となると、ロング・ショート戦略も取り入れていたと考えられます。
また、彼は投資対象企業を長期間、注意深く観察する忍耐強い投資家であり、危機の時期にトップの座を維持するような回復力を持つ企業を探します。バリュー投資家として、証券の本質的価値を判断するために定性的、および定量的分析の両方を行うようです。こうしたボトムアップ分析を通じて、質の高い経営を保ち自社株買いに前向きな企業をピックアップしていきます。一方で米国の財政状況に対する深い懸念から、債券への投資を避けています。利回りが2%であろうと4%であろうと、「債券は賭けるものではない」と考えているようです。こうした投資スタイルでオメガは設立以来、平均年間収益率12.5%を達成しており、ピーク時には100億ドルを超える運用資産を管理していました。
◆トラブル
1997年にアジア通貨危機が起き、1998年にはロシアが債務不履行に陥りました。そして1999年には、米連邦準備制度理事会(FRB)の元副議長やノーベル経済学賞を受賞した経済学者が加わる「ドリームチーム」と称えられたLTCM(Long Term Capital Management)が破綻してしまいます。当時の状況は以下をご参照ください。
▼1998年 LTCM(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/667
▼1998年 LTCM(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/668
これらによりマーケットは大混乱に陥り、オメガも巻き込まれてしまいました。同社最大の単一ファンドであるオメガ・オーバーシーズ・パートナーズは1998年に年間6.3%の損失を被ります。この影響で解約による大量の資金流出に見舞われたほか、同社の主力ポートフォリオ・マネージャーが「家族と過ごす時間を増やし、自身の投資を管理する」ことを理由に退社してしまいます。しかし、これはトラブルの始まりにすぎなかったようです。(敬称略、後編につづく)