[Vol.1978] 50年続いた減反政策

著者:吉田 哲
ブックマーク
原油反発。米主要株価指数の反発などで。61.64ドル/バレル近辺で推移。

金反落。ドル指数の反発などで。3,325.04ドル/トロイオンス近辺で推移。

上海ゴム(上海期貨交易所)反発。25年09月限は14,495元/トン付近で推移。

上海原油(上海国際能源取引中心)反発。25年07月限は458.3元/バレル付近で推移。

金・プラチナの価格差、ドル建てで2242.64ドル(前日比63.46ドル縮小)、円建てで10,642円(前日比70円縮小)。価格の関係はともに金>プラチナ。

国内市場は以下のとおり。(5月27日 18時59分時点 6番限)
15,365円/g
白金 4,723円/g
ゴム 326.9円/kg
とうもろこし (まだ出来ず)
LNG 1,799円/mmBtu(25年8月限 5月27日15時39分時点)

●シカゴ小麦先物 月足  単位:ドル/ブッシェル
シカゴ小麦先物 月足  単位:ドル/ブッシェル
出所:MarketSpeedⅡより筆者作成

●本日のグラフ「50年続いた減反政策」
前回は、「コメの小売価格が1年間で2倍に」として、国内産コシヒカリの小売価格(都道府県庁所在地平均)税込を確認しました。

今回は、「50年続いた減反政策」として、日本のコメと麦類の作付面積を確認します。

コメの減反政策とは、過剰に生産されて価格が大きく下がることを避けるために、コメを生産する方々に、田んぼを他の作物を生産するために転用することを促す政策です。この制度は1970年ごろに本格化し、2018年までのおよそ50年間、続きました。

実際に、日本のコメの作付面積は同政策の開始とともに急減し始めました。1960年代に300万ヘクタールを超えていたコメの作付面積は、1970年代はじめに300万ヘクタールを、1980年代に250万ヘクタールを、1990年代に200万ヘクタールを、それぞれ割り込みました。政策がコメの作付面積を急減させたと言えます。

ただし、同政策が終了した2018年以降も、減少は続いています。150万ヘクタールを割り込んだのは2023年です。減反政策が終了してもなお、コメの作付面積が減少している背景に、コメを生産する担い手不足や資材高などの、近年ならではの大きな課題が挙げられます。減反政策だけが、作付面積を減少させる要因ではないことが分かります。

また、作付面積について、麦類(小麦、大麦、ライ麦、オーツ麦の合計。小麦がメイン)と合わせて見てみると、以下のような推移になっています。

小麦の作付面積は、1950年代半ばから70年代後半にかけて、急減したことが分かります。この急減もまた、政策起因だったとされています。

東西冷戦の激化や朝鮮戦争(1950年)の勃発などを受け、米国は対共産圏包囲網を構築しはじめました。こうした中、米国は1951年に相互安全保障法を制定し、経済支援を受ける国に防衛義務を負わせることとしました。

そして1954年、援助を受ける日本は日米相互防衛援助協定(MSA協定:Mutual Security Act)を締結し、同協定に基づき、陸・海・空の三自衛隊を設置し、さらにはこのMSA協定に含まれる「農産物購入」に関する協定に従い、米国の農産物を購入することを決めました。

当時、米国は自国内に穀物(主に小麦)の余剰在庫を抱えていました。同協定をもとに協定を結ぶ相手国に、貧窮者への援助と学校給食に使用することを目的とした贈与、という名目などで、穀物の余剰在庫を輸出しはじめました。日本はそれを受け入れました。日本における麦類の作付面積が急減し始めたのは、このころからです。

筆者はこの米国からの穀物輸入開始が、減反政策の方向性に、影響を与えたと考えています。

図:日本のコメと麦類の作付面積 単位:百万ヘクタール
図:日本のコメと麦類の作付面積 単位:百万ヘクタール
出所:農林水産省および米国農務省のデータをもとに筆者作成

 

このコラムの著者

吉田 哲(ヨシダ サトル)

楽天証券経済研究所 コモディティアナリスト
1977年生まれ。超就職氷河期の2000年に、新卒で商品先物会社に入社。2007年よりネット専業の商品先物会社でコモディティアナリストとして活動を開始。2014年7月に楽天証券に入社。2015年2月より現職。「過去の常識にとらわれない解説」をモットーとし、テレビ、新聞、雑誌、インターネットなどで幅広く、情報発信を行っている。大学生と高校生の娘とのコミュニケーションの一部を、活動の幅を広げる要素として認識。キャリア形成のための、学びの場の模索も欠かさない。