1995年 ベアリングス(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【4】 

著者:MINKABU PRESS
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◆阪神・淡路大震災


1995年1月17日の明け方、淡路島北部を震源とする阪神・淡路大震災が発生し、兵庫県を中心として近畿圏に甚大な被害をもたらしました。当日の東京市場では株価の下落は限定的なものにとどまりましたが、被害状況が明らかになるにつれて株価の調整は大きくなっていきました。ベアリングスのトレーダー、ニック・リーソンが目先のプレミアム欲しさに多数組んでいたショート・ストラドルは、権利行使日まで株価が大きく動かなければ利益が出るポジションです。その一方で、大きく動くと損失が発生するポジションですから、震災後の値動きは巨額の損失を発生させるものでした。

日経平均株価(1995年1月~2月、日足、円)

 ところが、彼は日経225先物を大量に買い向かいます。震災後は日経平均株価が値を戻すと見たのか、単純に買い支えたかったのかは定かではありませんが、震災があった週末には約1万1000枚を買い持ち、翌週末には約2万7000枚も買い持ちにしました。その週明けの株価急騰で買い持ちの約4分の1を売り、震災後の損失を全て取り戻します。ここまでは危機に際して見事な腕の冴えをみせたといえるかもしれません。

しかし、彼はすかさず買い持ちを再び膨らませ、2月の初めには約3万1000枚の買い持ちにしています。こんな短期間に多額の損失を取り戻せるなら、もっと大きな利益が出せるかもしれない、と考えたのでしょうか。2月に入ってからショート・ストラドルのポジションを5000枚近くも組みます。

 こうした取引は常軌を逸していると言えるでしょう。取引量の大きさもそうですが、当時の日本株は震災がなくとも調整局面にあったからです。というのも、1990年代前半は日米貿易摩擦が激化しており、1993年1月に就任した米クリントン大統領は、対日赤字を削減するため具体的な数値目標を設定する包括協定を日本側に提案していました。その後も「貿易不均衡の是正には円高が有効」と発言するなど、米国は自国通貨安を狙う意思を鮮明にします。

これに沿って為替市場ではドル安・円高が続き、1994年に1ドル100円を割り、さらに1995年4月には一時1ドル80円を割り込むほどの円高・ドル安となりました。そして、この円高の流れに沿うように日本株は下落を続けていたのです。

日経平均株価とドル円(1994年~1995年)png
 

◆逃走、そして破綻


 震災の約5週間後、リーソンは大量のポジションを抱えたまま、行方をくらまします。多額の評価損に耐えられなくなったこともあるのでしょうが、1994年末辺りからベアリングス本社でシンガポールへの大量送金が問題になり始めたうえ、ポジションの大きさや証拠金不足、債務不履行の噂などで、ベアリングスはSIMEXや国際決済銀行(BIS)、英中央銀行のイングランド銀行からも目を付けられていたからです。

当時のベアリングスの日経225先物ポジションは、確認されていただけでも大阪証券取引所全体(現在の大阪取引所)の約3割に相当していたといわれます。さすがにSIMEXやBISらの包囲網の圧力もあって、トレーディングの業務に縁遠く、ましてデリバティブの業務には全く疎かったベアリングス本社も本格的な調査に乗り出しました。そのためリーソンは、これらの追求をかわすことはもはやできないと悟ったのではないでしょうか。

リーソンが逃走した翌日、ベアリングスはトレーダーの損失が自己資本を上回る4億ポンド(およそ642億円ですが、その後に損失は膨らんでいきます)に及んでおり、これが本当ならば破産であるとイングランド銀行に報告しました。もっともベアリングスが経営破綻の危機に瀕したのは、この時が初めてではありません。古い話になりますが、実は1890年にも一度破綻の瀬戸際まで追い詰められています。

 ベアリングスは1762年に創業したベアリング商会を起源とし、18世紀の後半は大英帝国の急速な発展とともに隆盛を極め、19世紀にかけては欧米各地の戦乱に乗じ、戦費調達で大いに潤いました。また、一族は爵位を5つも授与され、大蔵大臣やイングランド銀行の総裁などを輩出するほどの名門となります。

 19世紀後半になると南米各地の国債や公債の発行を引き受けるようになりましたが、上手くさばけず、アルゼンチンで革命が起きたために、多額のローンを引き受けた同国の上下水道会社が債務不履行となり、同社は危機的な状況に追い込まれていきます。当時は「ベアリング恐慌」と呼ばれ、深刻な経営危機への警戒感が高まりますが、イングランド銀行や同業他社による共同出資がまとまり、何とか消滅だけは免れました。
 

◆救済が間に合わず、損失を拡大


1995年においてもイングランド銀行は同様のスキームを念頭にベアリングスの救済に奔走します。もっとも前回の経営危機とは異なり、イングランド銀行は公的資金の注入を端(はな)から考えておらず、取りまとめ役に専念したようです。

金曜日にベアリングスから破産の報告を受けたイングランド銀行は、欧米の主要金融機関を招集し、月曜日に東京株式市場が開くまでにベアリングスの受け皿を用意しなければならないと考えました。土日の協議中にベアリングスの損失は4億ポンドから6.5億ポンド(およそ1043億円)に膨らみ、協議は混迷を極めましたが、前金で5%の他に毎月1%、都合年17%という破格の条件で受け皿となる資金は何とか集まりました。

後は最終的な引受先ですが、候補としてベアリングスの主要顧客であるブルネイ(正式国名ブルネイ・ダルサラーム国)の国王スルタンが浮上します。1984年に英国から独立した英国連邦加盟国のブルネイは、ボルネオ島北部に位置する小さな国ですが、天然ガスや石油資源が豊富な世界一豊かな国と言われています。国王スルタンは当時、ベアリングスに約35億ポンドもの巨額資金を運用委託していたといわれ、英国女王をはるかに凌ぐ同社最大の個人客だったようです。

ブルネイ・ダルサラーム国の位置と国旗

ブルネイ・ダルサラーム国の位置と国旗

出所:外務省(バンダルスリブガワンはブルネイの首都)

最後は「国王スルタンの承認を待つのみ」というところまで話は進みますが、それは英国の日曜日の夜。残念ながらブルネイでは深夜でしたので国王スルタンは既に就寝中で、眠りについた国王を起こせる者など誰もいません。そのため、月曜日の東京株式市場が開くまでに話を取りまとめることはかないませんでした。

 結局、イングランド銀行総裁は日曜日の夜遅くに、ベアリングスの破綻とともに、この問題が他には波及するものではないと発表せざるを得ませんでした。しかし、こうした対応も、ベアリングスのポジションが解消されることで相場急落が予見されたため、マーケットでは先回り売りを誘発します。加えて、SIMEXはシンガポールにおけるベアリングスのポジションを安値で処分してしまったのです。このため、最終的な損失は8.6億ポンド(およそ1380億円)まで膨れ上がったのです。

 逃亡後にフランクフルト空港で身柄を確保されたリーソンは、後のインタビューで次のように述べています。逃亡した時点では損失が3.25億ポンド(およそ521億円)であったことは認めるが、それを8.6億ポンドまで膨らませる必要があったのか、もう少し上手い処理の仕方があったのではないか、と…。

 女王の銀行と謳われた名門金融を破綻へと導いた原因は確かに一人のトレーダーの無謀な取引にありましたが、同時に危機を感知した後の対応と破綻処理の進め方で課題を残しました。後に繰り返される金融ショックでも、破綻処理のスキームがマーケットの立ち直りを大きく左右していきます。金融ショックから得られた教訓は貴重であるはずですが、日本のバブル崩壊の事例をあげるまでもなく、残念ながら新たに立ち現れる危機に対して必ずしも有効に生かされてきたとはいえません。私たちはあらためて「危機の歴史」から学び続けていく必要がありそうです。
 

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資産形成情報メディア「みんかぶ」や、投資家向け情報メディア「株探」を中心に、マーケット情報や株・FXなどの金融商品の記事の執筆を行う編集部です。 投資に役立つニュースやコラム、投資初心者向けコンテンツなど幅広く提供しています。