◆トータル・リターン・スワップとは
ビル・フアン率いるアルケゴス・キャピタル・マネジメントが、金融機関各社との取引の際に利用していたトータル・リターン・スワップとは、どのようなデリバティブなのでしょうか。スワップ取引ですから、何かと何かを交換することを意味しますが、この場合、その名の通りトータル・リターンと手数料を交換します。難しく考える必要はありません。なぜなら、仕組みとしては日本の証券会社で行う信用取引とほとんど同じである、といえるからです。
日本の信用取引の場合、担保として委託証拠金を預け、その約3.3倍の資金(あるいは株券)を借り入れて取引することができます。ただし、いくら委託証拠金があっても1人の投資家が構築できる最大取引額は、各証券会社の規定によって決められています。また、借入資金(あるいは株券)に対する金利(あるいは手数料)も各社の規定によります。
しかし、トータル・リターン・スワップの場合、レバレッジや金利、手数料、あるいは最大取引額などは、投資家と金融機関との話し合いによって決まります。言わば、オーダーメイドの信用取引と考えられます。また、取引によって取得した銘柄が大量であれば、日本の信用取引の場合、投資家に金融当局への報告義務ならびに開示義務が生じます。しかし、トータル・リターン・スワップでは、投資しているのはあくまで金融機関ですので、報告義務や開示義務は金融機関に生じ、投資家(この場合はアルケゴス)は取引内容を帳簿に載せる必要もありません。
また、ヘッジファンドであれば定期的にポジションの報告義務や開示義務が生じます。ところが、ファミリーオフィスであるアルケゴスには開示義務も課せられていないため、各金融機関はアルケゴスに対して他の金融機関がどのくらいの規模のポジションを持たせていたのか、全く知り得なかったわけです。
このスワップを通じてアルケゴスは気前よく高額の手数料を支払っており、金融機関にとってアルケゴスは最上位の得意客であったようです。そして、アルケゴスはその立場を利用してレバレッジを高め、巨額のポジションを構築していったのです。
◆ビル・フアンの経歴
このアルケゴス・キャピタル・マネジメントを運営するビル・フアンとは、一体どのような人物なのでしょうか。彼は韓国名をファン・ソングクといい、1964年に韓国で生まれました。
父親はキリスト教ホーリネス系教団の牧師、母親は同教団の宣教師であり、彼自身も敬虔(けいけん)なクリスチャンとして、キリスト教関係の宣教団体や慈善団体への寄付を行う「グレース・アンド・マーシー財団」を創設したほか、神学校の理事なども務めています。
高校3年生の時に家族と共にアメリカへ移住。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の経済学部を卒業後、ペンシルベニア州ピッツバーグのカーネギーメロン大学でMBA(経営学修士)を取得しました。
1990年に韓国の現代証券ニューヨーク支店に株式営業マンとして入社、3年後に香港のプレグリン証券アメリカ法人に転職して株式ブローカーとして勤務します。そして、ヘッジファンド界の巨人と言われたジュリアン・ロバートソン率いるヘッジファンド、タイガー・マネジメントを担当するのです。彼は1996年にタイガー・マネジメントにアナリストとして入社します。
◆タイガー・アジア
2000年にタイガー・マネジメントが巨額の損失を出して解散した翌年、彼はジュリアン・ロバートソンの支援を受けてタイガー・アジア・マネージメントを設立し、およそ1年で運用資産を約9倍に膨らませるという非常に高いパフォーマンスを叩き出しました。前編で紹介した通り、彼は幾つかの銘柄を集中的にトレードする投資スタイルを得意としており、それは師匠のジュリアン・ロバートソン譲りの戦略でした。
やがてタイガー・アジアのトレード規模は大きくなり、アジア株だけでは運用し切れなくなったため、投資先に欧米企業を加えるようになりました。しかし、2008年10月には欧州株への投資により運用資産の約40%を失う損失を被ります。この年の10月と言えば、リーマン・ショックの翌月のことですから市場はリスク回避の地合いにありましたが、そのただ中で、ある銘柄に空売りを仕掛けていたタイガー・アジアは踏み上げを余儀なくされたのです。
同年10月26日、ドイツの自動車メーカー、フォルクスワーゲンの買収を企てていた同業のポルシェが、フォルクスワーゲン株の保有比率を35%から74.1%に引き上げたと発表します。これを受けてフォルクスワーゲン株は2日間で4.5倍に急騰。このときフォルクスワーゲン株を空売りしていたのがタイガー・アジアでした。踏み上げで苦境に陥ったタイガー・アジアは損失を抱えてポジション解消に追い込まれます。皮肉なことにその後、ポルシェは資金繰りが悪化しフォルクスワーゲンの買収に失敗、逆に2012年にフォルクスワーゲンにより完全子会社化される運命をたどります。
また、タイガー・アジアは、2008年から2009年にかけて中国銀行や中国建設銀行などの株式取引を巡って、株主増資の発表前に空売りし利益を得たとしてインサイダー取引の容疑で米国証券取引委員会(SEC)により告発されます。そして、2012年に1630万ドルの利益没収のほか、総額4400万ドルもの罰金を支払うことになり、ビル・フアンはブローカーやディーラーなどの職に就くことも禁じられました。
この件は香港でも問題となり、香港の市場不正行為裁判所(MMT) は2014年、タイガー・アジアに対して約580万ドルの支払いを命じたほか、香港での証券取引を4年間禁止するよう命じています。
そればかりでなく、タイガー・アジアは東京株式市場でも同様の問題を起こしています。2009年3月17日にタイガー・アジアはヤフー(現在のZホールディングス <4689>)株を巡って、直前約定値段より高値の上限価格を提示した買い付けの計らい注文(都合3万2960株)を複数の証券会社に分散して発注。これによりヤフーの株価は2万4310円から2万5340円まで値上がりします。株価釣り上げを狙ったその手口は昔の仕手筋と変わらず、2012年には相場操縦で金融庁から6571万円の課徴金支払いを命じられました。
出所:Refinitiv、2013年9月に実施した株式100分割を遡及
◆先に立つ指導者
これらの問題を機にビル・フアンはタイガー・アジアを閉鎖し、2013年にファミリーオフィスを設立しました。「本当にひどいビジネスの問題が生じた」と感じた彼は「どれほどのお金があっても役に立たない」と悟り、キリスト教の信仰を復活させ、ファミリーオフィスの社名を「アルケゴス」と名付けました。この名称はギリシア語で「先に立つ指導者」または「建国の父」を意味し、聖書ではイエス・キリストを指すために用いられています。
アルケゴスでは毎週金曜日の朝に聖書の勉強会が開催されるなど、社内にキリスト教精神が浸透する一風変わった資産運用会社でした。また、彼は生活が派手な他のヘッジファンド・マネージャーとは異なり、ウォール街の中では比較的質素な暮らしぶりを通し、教会に熱心に通い、惜しみなく巨額の寄付も行っていました。
しかし、幾つかの銘柄を集中的にトレードするといった投資スタイルは全く変わらず、結局は再び巨額損失の発生を招いてしまいました。もちろん、敬虔(けいけん)なクリスチャンだから何をしても許されるわけではありませんが、現在報じられている限りでは「事業上の誤り」(ジュリアン・ロバートソン)であり、以前のように法に触れる罪は犯してはいないと考えられます。
ちなみに、1998年に巨額の損失を被り、異例の救済劇へと発展したヘッジファンドのロングターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)も、アルケゴスと同様にトータル・リターン・スワップを用いていたとされます。LTCMに関しては以下をご参照ください。
1998年 LTCM(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/667
1998年 LTCM(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/668
米著名投資家のウォーレン・バフェットはLTCM救済から数年を経た2002年に、トータル・リターン・スワップを含むデリバティブ商品について「今はまだ息を潜めているものの、致命的な損害を与える危険をはらんでいる金融の大量破壊兵器だ」と警鐘を鳴らしました。それから20年近く経過した現在、市場を揺るがす損失劇が再び繰り返されましたが、アルケゴスはLTCMのように救済されることはありませんでした。
今回の件でビル・フアンは、マーケットには神も仏もいないと嘆いて失意に沈んでいるかもしれません。しかし、彼の師匠であるジュリアン・ロバートソンは「彼は良い投資家だから、彼にもう一度投資する」と述べています。捨てる神あれば拾う神あり、ということなのでしょう。過去に問題はあったにせよ、傑出した投資家であるビル・フアンが今回の失敗から学んで再び立ち上がり、復活することを願います。