◆プリンシプルズ(人生と仕事の原則)
『デリバティブを奏でる男たち』では、これまでさまざまな人物を取り上げ、彼らが創り上げてきたヘッジファンドなどを紹介してきました。どれも名立たるヘッジファンドばかりですが、運用資産規模で言うといずれも直近においてはナンバーワンではありません。そこで第9回は、トップの運用資産規模(2020年6月末現在)を誇るブリッジウォーター・アソシエイツを創業したレイ・ダリオを取り上げます。
レイ・ダリオはトレードを通じて高い運用成績を目指す他のヘッジファンド創業者と異なるアプローチでヘッジファンドを創設しています。そして、投資に対する革新的な考え方を次々と提唱し、実践することで高い支持を得ていきます。例えば社員を含め、多くの人々に彼の考え方を提案した著書『プリンシプルズ(人生と仕事の原則)』はそのひとつの例といえるでしょう。
この書籍で彼は「人生の大変な経験からの方が、楽な経験よりもはるかに学ぶことが多い。(中略)痛みを感じ、そして反省して、初めて進化できるということを忘れてはならない」と説いています。これだけみると何やら教訓めいた哲学書のようにみえますが、ブリッジウォーター・アソシエイツの歩みは、まさにこの繰り返しだったのです。
◆生い立ち
レイモンド・トーマス・ダリオ(通称レイ・ダリオ)は1949年、米ニューヨーク州クイーンズ区で生まれました。12歳の時に近所のゴルフ場でキャディのアルバイトを始め、そこで稼いだ資金を使って株式投資を始めます。少ない資金でも買える株価5ドル以下の銘柄ということで、経営難により株価が低迷していたノースイースト航空(現在のデルタ・エアーラインズ<DAL>)株を選んで買います。ところが、その直後に伝説の大富豪と称されたハワード・ヒューズによって同社は買収され、株価は実に3倍になったといいます。
暗記が嫌いだったダリオは1967年、ロングアイランド大学のC.W.ポスト校に辛うじて入学しますが、大学で好きなことを学ぶ楽しさを覚え、集中力を高める瞑想方法を体得したことで成績は良くなります。大学卒業後はハーバード・ビジネス・スクールに入学し、そこで友人たちと商品取引を行う会社ブリッジウォーターを興しました。
取引に必要な知識はメリルリンチの商品取引部門でインターンとして働くことにより得たようです。この当初設立した会社は大して儲かりませんでしたが、このときに身につけた知識が役立ち、ハーバードでMBA(経営学修士)を取得した後は中堅ブローカーのドミニク・アンド・ドミニクで部長職に就いています。
ドミニクが店じまいすると、後にシティグループ<C>を起ち上げたことで有名になるサンフォード・ワイルが率いていたシェアソン・ヘイデン・ストーンに就職し、商品先物および金融先物を使った事業ヘッジ業務を担当します。
◆解雇・独立の紆余曲折
ダリオは酒の席で上司を殴り、シェアソンから解雇されてしまうのですが、このときの得意先だった機関投資家や企業、農家などから、引き続き事業ヘッジのアドバイスをして欲しいと頼まれ、1975年にブリッジウォーターを再稼働します。
そして、事業コンサルティングやエクスポージャー(事業資金や投資資金がリスクに晒されている状況や割合)管理を始め、マクドナルド<MCD>やナビスコといった著名な食品業者などにもアドバイスを行っていたようです。
例えば、「自国通貨売り・投資対象国通貨買い」といった為替取引を伴うことになる海外への投資に対して、為替変動リスクをヘッジするとなれば、「自国通貨買い・投資対象国通貨売り」といった通貨ヘッジをすることになりますが、これを案件ごとに行うのでなく、会社単位でまとめて行うといった助言です。
この考え方を発展させ、「為替オーバーレイ」という管理手法を編み出します。海外証券投資をする際にはその筋の専門家に任せますが、彼らが必ずしも為替別の投資判断にも優れているとは限りません。そこで為替変動リスクをヘッジする作業を分離させ、これを通貨の専門家が一元管理するといった方法を採用しました。この「分離する」という発想は、他の革新的な投資の考え方にも応用されていきます。
またダリオは、自分の考えや推測を「デイリー・オブザベーションズ」というマクロ分析レポートにして有料配信しました。このレポートは非常に評判が高く、後に世界中の企業家や年金基金のファンド・マネージャーのほか、各国の中央銀行や財務省などの関係者も必読する有名なレポートになります。
1982年8月にメキシコが債務危機に陥った際、それ以前から米金融機関が新興国への貸出を増やしていたとみたダリオは、ここから金融恐慌が起きると考えました。そして会社の全財産を賭けますが、恐慌は起きずに投資は失敗に終わります。会社の全財産が失われたことにより、自分以外の全社員を解雇し、かつ親から4000ドルを借りねばならない、といった厳しい状況に追い込まれました。このときの教訓が冒頭に紹介した「プリンシプルズ」に活かされているのでしょう。
もっとも悪い話ばかりではありません。1985年には「デイリー・オブザベーションズ」に対する高い評価によって、世界銀行から国債を集めたポートフォリオ500万ドルの試験運用を依頼されます。この運用を通じて、彼はまたしても革新的な投資の考え方を生み出していくのです。それは一体どのような考え方なのでしょうか。(敬称略、後編につづく)