◆知る人ぞ知るヘッジファンド
今回は債券、通貨、金利、株式、これらのデリバティブなどを取引することで、世界経済の変化からマネーを稼ぐことを目指すグローバル・マクロ系の英国ヘッジファンド、ブレバン・ハワード・アセット・マネジメントを取り上げます。ブレバン・ハワードと言えば共同創業者のアラン・ハワードを指すことが多く、第22回で取り上げたD.E.ショー・アンド・カンパニーのように創業者の名前を冠するヘッジファンドです。ただ、創業者のアラン・ハワードはマスコミ嫌いのようで、直接の取材を避け、最近まで写真も公開されていませんでしたので、ブレバン・ハワードは知る人ぞ知るヘッジファンドと言えるでしょう。
ブレバン・ハワードは、その実力から一時は「世界最大級のマクロ系ファンド」と称されるほど隆盛を極め、運用資産額も約400億ドルまで膨らみましたが、近年の成績不信などから2018年には60億ドル程度まで縮小。これを機会にアラン・ハワードは経営の第一線から退き、資産運用に専念する一方、少しずつ表に出てくるようになりました。LCHインベストメンツによるヘッジファンド収益ランキングにおいて、2018年に8位、2020年に10位となるくらいには運用成績が回復しており、運用資産額も2022年4月現在で約200億ドル程度まで戻ってきているようです。
![2018~2021年利益トップ15のヘッジファンド(単位は10億ドル)](https://s3.fu.minkabu.jp/pictures/1678/original_c1.png)
出所:各種報道(再掲)
ユダヤ系英国人のアラン・ハワードは1963年に生まれました。ロンドンのハスモニア・グラマー・スクールを卒業後、インペリアル・カレッジ・ロンドンで理工学の修士号を取得。そして、米名門投資銀行ソロモン・ブラザーズ(現在はシティグループ<C>の一部)で金融キャリアをスタートさせます。
1995年に東海銀行ヨーロッパへ転職して債券金利取引部門の責任者を務めた後、1997年にクレディスイス・ファーストボストン(CSFB、現在のクレディ・スイス・グループ<CS>)へ移籍。債券金利取引部門のマネージングディレクター、および自己勘定取引のグローバルヘッドを務めました。2001年からはCSFBにおいてプライベート・バンキング部門の顧客向けに設立した投資会社の投資運用も手掛けました。
ハワードは2002年、同じ部門で働いていたトレーダー、ジャン・フィリップ・ブロシェ、クリストファー・チャールズ・ロコス、ジェームズ・ウィリアム・エドワード・バーノン、トリフォン・ナティスの4人とともに独立し、ブレバン・ハワードを設立します。ちなみに「ブレバン(Brevan)」とは、この4人の名前の頭文字で構成された造語です。
◆厳格な運営体制で評判を呼ぶ
ブレバン・ハワードは8億7000万ドルを集めて2003年から運用を開始。その後、2013年までは一度も運用成績がマイナスになったことがありませんでした。リーマン・ショック前後でさえ2007年に25%、2008年に21%、2009年に19%の投資収益を叩き出しています。このように同社は混乱に乗じて稼ぐといった特徴がある一方で、安定した高い収益を出し続けられたのは、早い段階から厳しいリスク制限を設けていたことが大きく寄与したようです。同社ではリスク管理委員会でトレーダーのポジションを綿密に管理し、損失がかさむと運用資産を減らすという仕組みを導入していました。もちろん、ハワード自身もこの仕組みの対象となっています。
2008年のリーマン・ショックのときは、その前年からリスクを軽減させ、ベア・スターンズのサブプライム関連ファンドが破綻してからはレバレッジを極端に縮小。現金比率を7割近くまで高めたほか、取引相手の信用度を見直してリスクが高まっている投資銀行との取引も縮小させました。こうした姿勢により、同社は失敗や過ちをほとんど容認しない厳格に運営されている組織という評判を高め、年金などの保守的な機関投資家の支持を集めていきます。
また、2007年には英国で初めてブレバン・ハワード・マクロ・リミテッドというヘッジファンドを上場させました。そして、2008年にブレバン・ハワード・グローバル・リミテッド(2021年7月に上場廃止)、2010年にブレバン・ハワード・クレジット・カタリスト・リミテッド(後にデビッド・ウォーレン・カタリスト・ファンドに銘柄名を変更、2017年8月に上場廃止)と、都合3本のヘッジファンドを上場させています。
◆共同創業者が次々と辞任
もっとも良いことばかりではありません。2009年に共同創業者であるブロシェ(BrevanのB)が長期休暇の後に会社を去り、ルイス・ベーコン率いるムーア・キャピタルに移籍してしまいます。また、最高執行責任者(COO)であったバーノン(BrevanのV)も2011年にCOOを辞任しました。もっとも彼は関連ファンドの非常勤取締役にとどまり、その後に復帰しています(バーノンは2016年に再びCOOを辞任しています)。
そして、ブレバン・ハワードの運用に一番響いたのは、稼ぎ頭のロコス(BrevanのR)が2012年に退社したことでした。金利とボラティリティ・デリバティブの取引を専門とする彼は同社に在籍中40億ドルも稼いだと言われています。退社の理由は、2011年の業績に対する彼の報酬を巡ってハワードと争ったことだと言われていますが、そのほかにもブレバン・ハワードが2010年に、本社をスイスのジュネーブへ移転したことも影響したかもしれません。
当時の英国では増税と規制強化により、幾つかの主力ヘッジファンドが他国へ本社を移転させています。そのひとつにブレバン・ハワードも数えられましたが、ロコスはロンドンにとどまり、その後に退社。2014年には5年間の競争禁止条項を覆すため訴訟を起こします。この訴訟は翌年、ロコスが立ち上げるファンド、ロコス・キャピタル・マネジメントにブレバン・ハワードが35億ドルを出資することで和解しました。ところが、ロコスを失ったブレバン・ハワードは次第に稼ぎにくくなり、起死回生を図るため日本で大きな賭けに出たようです。一体どのようなトレードだったのでしょうか。(敬称略、後編につづく)