ヘッジファンド業界の父、アルフレッド・ジョーンズ(後編)―デリバティブを奏でる男たち【45】―

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◆成功はいつまでも続かない


 今回はヘッジファンド業界の父と呼ばれるアルフレッド・ウィンスロー・ジョーンズを取り上げています。彼が立ち上げた金融業界初と言われるヘッジファンド、A.W.ジョーンズは、ロング・ショートとレバレッジという2つの投資手法を用いたほか、マルチ・マネージャーという仕組みや競争の原理、インセンティブ(動機付けの仕組み)も導入。さらには2-20といった手数料体系(運用残高の2%を管理手数料、値上がり益の20%を成功報酬とする)など、現在のヘッジファンド・ビジネスの原型となっている手法を確立し、ジョーンズは大きな成功を手にしました。しかし、成功はいつまでも続きません。

 いくら彼が徹底した秘密主義を貫いても、儲かるとなれば似た手法を用いる競争相手が出てくるのは当然のことです。また、彼は投資よりも慈善事業に熱を入れ、儲けることしか頭にない市場関係者を次第に蔑むようになりました。こうした市場関係者に対する不遜な態度は反発を招くものです。市場関係者もマーケットに詳しくないジョーンズを軽蔑するようになり、離反者も出てきました。例えば、第4回で取り上げた米大手投資銀行モルガン・スタンレーの元チーフ・グローバル・ストラテジスト、バートン・マイケル・ビッグスなどが挙げられるでしょうか。
 
 ビッグスは米ニューヨーク銀行の最高投資責任者(CIO)であった父親の親友が会長を務める米国の老舗ブローカー、エドワード・フランシス・ハットンにアナリストとして働いていました。そして、父親の大学の後輩であるジョーンズに、銘柄を紹介して注文をもらうようになります。ビッグスの銘柄選択眼はあまりにも優秀であったため、ジョーンズから多額の注文が入り、彼は入社4年目にして同社の共同経営者(パートナー)に昇進するほどでした。
 
 ところが、ジョーンズからは「自分の会社に転職しなければ、今後は注文を出さない」と脅されたようです。困ったビッグスは、自分の大学の先輩であり、ジョーンズのところで一番長く働いていたポートフォリオ・マネージャーのリチャード・ワーナー・ラドクリフに相談。そして二人はジョーンズから離反するという結論に至り、1965年6月にヘッジファンド、フェアフィールド・パートナーズを設立しました。その際、顧客の一部も引き抜いていったといいます。

▼モルガン・スタンレーのバートン・ビッグス(前編)―デリバティブを奏でる男たち【4】
https://fu.minkabu.jp/column/985

▼モルガン・スタンレーのバートン・ビッグス(後編)―デリバティブを奏でる男たち【4】
https://fu.minkabu.jp/column/997
 

◆バブルの形成と崩壊


 1960年代の後半には、他にもジョーンズの手法を知る内部者や関係していたブローカーらが独立して多くの模倣ファンドが誕生し、それらが後にヘッジファンドと呼ばれるようになったといわれています。もっとも投資となれば、どのような手法においても必ず勝ち続けられるわけではありませんし、競争相手が出てくれば利益は少なくなる、あるいは利益が出せなくなるものです。また、ジョーンズは会議を「退屈」として行わず、慈善事業にのめり込んで会社にも顔を出さなくなり、スタッフとのコミュニケーションも薄れていきました。

 一方で運用を任されっ放しになったスタッフは次第にヘッジを止めてしまい、レバレッジを増やしていきます。確かに1960年代の米株式市場、特に後半は大きな資金を運用する投資信託が一部の成長株を対象に、集中投資や短期売買を繰り返しており、それらは「ゴーゴー・ファンド」などと呼ばれるほど活況でした。それゆえヘッジをすれば利益は少なくなるし、もっと利益を出そうとするならばレバレッジを増やす、ということになります。そして、安定したマーケットが長く続くと、儲かる手法に飛びつく投資家が増え、次第に投資行動が均一化していきます。しかも儲かり続けている間は、リスクが顕在化する場面も少なくなっているため、面倒で手間やコストがかかるリスク管理やヘッジも甘くなっていきます。更に儲けようとしてレバレッジを極限まで増やす投資家も出てきて、市場にはバブルが形成されていきます。
 
 しかし、急激な利上げやテロなどといった人為的な出来事、あるいは地震や大火災、極端な悪天候といった人智が及ばない突発的な自然現象が生じると、それらがきっかけとなって、これまでの「買ったら上がる、上がるから買う」といった好循環が、「下がるから売る、売るから下がる」といった悪循環に転じてしまうことがあります。このようにマーケット環境が急激に変化してしまうと、バブルは崩壊の道をたどることになります。詳細は以下をご参照ください。

▼【危機より学ぶ教訓】―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史
https://fu.minkabu.jp/column/779
 
 当時の米国においても、ベトナム戦争の泥沼化などにより、物価の高騰と金利の上昇が響き、1969年に株価は暴落してしまいました。このときにヘッジファンドとは名ばかりで、単にレバレッジを効かせただけのロング・オンリー(買い持ちのみ)の投資家は多くが運用に失敗します。その後、米株式市場は一時的に値を戻しますが、1971年にニクソン・ショックが起きました。第二次世界大戦後の為替市場では、ドルと金の交換レートを固定(1トロイオンス=31.1034768グラムを35ドルで交換)する金・ドル本位制でしたが、次第に米国の貿易収支が悪化することで米国の金準備が減少します。やがて金とドルの交換に応じられなくなり、遂には交換を停止してしまいました。ドルの金に対するペッグ(固定)が外れたことで、ドルが急落に見舞われて輸入物価が上昇。インフレ抑制のための利上げにより1970年代前半は株価が低迷し、ほとんどのヘッジファンドは姿を消したといいます。

 1960年代末に運用資産1億ドルを誇ったA.W.ジョーンズは、1969年の暴落で35%以上もの損失を被ります。1970年代前半の株価が低迷した時期にはヘッジが上手く機能したようですが、業界の厳しい環境にあおられ、1973年には運用資産が3500万ドルにまで縮小したとされます。こうしてヘッジファンドの第1世代は終わりを迎えたと考えられます。同社は何とか生き残り、1980年代に入って経営スタイルをファンド・オブ・ファンズに絞りましたが、その頃の運用資産は2500万ドルだったようです。しかし、その後も運用を続け、2022年3月末現在で運用資産は約6.2億ドルと1960年代末を大きく上回る規模となっています。(敬称略)
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。