ブラックロックのラリー・フィンク(前編)―デリバティブを奏でる男たち【12】―

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◆金融業界の指針、フィンク・レター


 第12回は、金融業界のみならず世界中の政府や中央銀行が注目する資産運用会社ブラックロック<BLK>の共同創業者であり、最高経営責任者(CEO)であるラリー・フィンクを取り上げます。

 株式、債券、キャッシュ、オルタナティブ(商品や未公開株など、株式や債券など伝統的資産以外の新しい投資対象)、不動産などを運用し、ETF(上場投資信託)事業やアドバイザリー事業なども行う同社は2021年6月末現在、9.49兆ドルの運用資産額を誇ります。

 また、財務長官の候補としてもその名が挙がったこともあるラリー・フィンクは、2008年に起きた世界金融危機をきっかけに毎年、投資対象企業のCEOへ書簡を送っています。基本的に世界経済の見通しとブラックロックの運用方針などが綴られているその内容は1月に公表されますが、これが金融業界の大きな指針になるとの評判も高く、この「フィンク・レター」は近年、注目を浴びるようになりました。
 

◆ファースト・ボストン時代


 ローレンス・ダグラス・フィンク(通称ラリー・フィンク)は1952年、米カリフォルニア州のユダヤ系家庭に生まれました。1974年にUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)で政治学の学士を取得し、1976年にUCLAアンダーソン経営大学院で不動産金融のMBAを取得します。卒業後は投資銀行のファースト・ボストン(現在のクレディ・スイス・グループ<CS>)に就職しました。

 同社では債券部門を担当し、米MBS(Mortgage Backed Securities、モーゲージ担保証券)市場の創設と開発に尽力します。最終的には同社史上で最年少の役員、および経営委員会のメンバーとなり、債券部門共同責任者のほか、金融先物・オプション部門の立ち上げや不動産担保ローンなど不動産関連の金融商品部門を率いました。

 しかし、良い話ばかりではありません。1986年に彼の部門は瞬時にして1億ドルを失います。金利が上昇するというフィンクの予測に基づき、巨大なポジションを取っていたからでした。このとき彼は、コンピューターシステムも、金利の変化などの主要な変数の影響を測定するプログラムも不十分であり、関連するリスクを本当に理解していなかったのでお金を失ったと述べています。

1986年の米金利急低下

※1986年4月から6月までの日足データ

 

◆ブラックストーン時代


 この失敗を反省した彼は、市場で取っているリスクを理解していない立場には二度とならない、と誓いました。そして、顧客のためにお金を投資するだけでなく、彼らに洗練されたリスク管理サービスを提供する会社を設立することを決めます。巨額損失の2年後、同社を追われるように退社したフィンクは、米オルタナティブ投資会社、ブラックストーン・グループ(現ブラックストーン)<BX>の債券運用部門としてブラックストーン・フィナンシャル・マネジメントを設立しました。

 当初はベア・スターンズの債券取引フロアの一角に借りた小さなオフィスでのスタートだった、と言われています。しかし、後に同社がベア・スターンズの救済買収をサポートする立場になるとは、当時の誰も想像することはできなかったことでしょう。

 この会社ではファースト・ボストン時代の反省から、リスクを評価し、管理するための最先端のシステムを構築しています。多くのエンジニアや数学者、アナリスト、プログラマーを雇い、何百万もの毎日の取引を監視し、顧客の投資ポートフォリオのリスク全てを精査するほか、金融市場の考えられるあらゆる変化を予測し、数多くの世界的危機シナリオを用いて数十万の証券のパフォーマンスをテストしました。  また、「アラジン」と呼ばれるこのシステムを使って、物事がうまくいかなかった顧客に対してはアドバイザリー事業も始めました。最初の顧客となったのが、住宅資金用の貯蓄と貸付を目的として発展した金融機関であるS&L(貯蓄貸付組合、Savings and Loan Association)です。当時のS&L業界は急拡大の後に破綻が相次ぎ、危機的な状況に瀕していました。S&L危機に関しては以下をご参照ください。
 

▼1980年代 S&L危機(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【1】 

https://fu.minkabu.jp/column/580

 

▼1980年代 S&L危機(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【1】 

https://fu.minkabu.jp/column/587



 さらにS&Lの預金を保護するFSLIC(Federal Savings and Loan Insurance Corporation、連邦貯蓄貸付保険公社)が破綻し、その事業を引き継いだFDIC(Federal Deposit Insurance Corporation、連邦預金保険公社)も彼らにアドバイスを求めました。こうした政府系機関へのアドバイザリー事業は、後に同社の地位を不動のものにする「きっかけ」となっていった、とみられます。
 

◆社名変更と上場、そしてさらなる拡大


 同社は1992年に社名をブラックロックへ変更。1994年にブラックストーンが米大手地銀グループのPNCファイナンシャルサービシズグループ<PNC>にブラックロックの株式を売却したことから同社はブラックストーンと離れ、1999年に上場を果たしました。

ブラックロック上場以来の株価

 その後は2005年に米生命保険会社メットライフ<MET>の子会社であるステート・ストリート・リサーチ&マネジメント社を買収、2006年にはメリルリンチ・インベストメント・マネージャーズと合併し、米大手投資銀行のメリルリンチ(現在のバンク・オブ・アメリカ<BAC>)も同社の株主に加わります。また、2007年にはケロス・グループのファンド・オブ・ファンズ事業を買収するなど、次々と規模を拡大していき、運用資産規模は2008年末に1.3兆ドルと、3年間で約3倍に膨れ上がりました。

 2008年と言えば、ご存じの通りサブプライム住宅ローン問題に端を発したリーマン・ショックにより、世界金融危機が起きた年です。このときブラックロックは、以前よりアドバイザリー事業を通じて付き合いがあった政府系機関から、非常に大きな問題を任されることになります。それは一体なんだったのでしょうか。 (敬称略、後編につづく

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。