クリフ・アスネスのAQRキャピタル(後編)―デリバティブを奏でる男たち【38】―

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◆クオンツ・ショック


 ゴールドマン・サックス・グループの投資顧問会社でクオンツ・リサーチ部門を担当していたクリフォード・スコット・アスネス(通称クリフ・アスネス)、ジョン・M・リュー、ロバート・J・クレイル、それにデビッド・G・カビラーを加えた4人は1997年に同社を辞め、翌年に独自のクオンツ・ヘッジファンド、AQR(Applied Quantitative Research、応用定量調査)を立ち上げました。

 ファーマとフレンチが提唱した3ファクター・モデル(前編をご参照ください)をベースに開発した運用モデルを用いた彼らのファンドは、2000年のITバブル崩壊で運用成績が悪化し、一時は会社の存続が危ぶまれる場面もあったと言われています。その後に運用成績が回復し、2007年には上場を準備しましたが、前編で触れたゴールドマン・サックス・グローバル・アルファ・ファンドと同様、再び運用成績が大きく悪化し、上場を断念せざるを得ませんでした。
 
 前編では触れていませんが、運用成績の悪化はクオンツ・ショックが大きく影響したものと思われます。クオンツ・ショックとは、それまで有効だったファクター(要因)投資が、2007年8月に突如として効かなくなるばかりか、むしろマイナスに作用するようになってしまった事態を指します。

 その背景として、当時に問題となっていたサブプライム住宅ローンに絡む損失を穴埋めするため、クオンツ・ファンドにまとまった解約が出て、保有ポジションの大量処分に見舞われた、と考えられています。これによりファクター投資の処分が相次ぎ、マイナスに作用するようになってしまったのではないでしょうか。

 クオンツ・ショックはファクターレベルの変調であって、マーケット全体が大きく崩れたわけではなかったため、一般にあまり知られていません。しかし、クオンツ・ファンドの損失を穴埋めするために、他のファンドの保有ポジションも処分するといった連鎖が起き、間もなくマーケット全体も調整をしました。

 この事態にAQRは上場断念どころか、会社が深刻な問題に直面しているという噂を否定する手紙を投資家に書かなければならなかったと言います。その後のリーマン・ショックでは更に多くの損失に見舞われ、AQRの共同創業者の1人であるクレイルは、健康上の理由で退職してしまいました。

 

◆手数料の価格破壊


 何とか生き残ったAQRは、リーマン・ショック後から急速に収益を回復させましたが、ヘッジファンド事業の収益依存度が大きいことを問題視し、2009年から投資信託を組成するようになります。つまり、機関投資家だけでなく、個人投資家にもファクター投資を享受できる手数料の低い金融商品の提供を始めたのです。
 
 一般的にヘッジファンドは管理手数料2%、成功報酬20%が相場と言われ、ファンド・マネージャーの卓越した手腕ゆえに、投資信託よりも手数料が高く設定されています。しかし、AQRではコンピュータ制御による自動売買なので一度セットしてしまえば、よほど問題が生じない限り、人手はほとんど必要ないと考えられます。彼らが運用するファンドによって手数料は異なりますが、一般的なヘッジファンドよりも割安な手数料で、かつヘッジファンド並みの運用成績を提供するAQRは、ヘッジファンド業界の価格破壊を打ち出したと言えるでしょう。
 
 従来のヘッジファンドを、手数料は高いのに運用成績はファンド・マネージャー次第とするアクティブ・ファンドとみなすならば、AQRの投資信託は安い手数料で市場平均と同じ運用成績を提供するパッシブ・ファンドのようなもの、と言えるかもしれません。また、AQRの投資信託は、投資理論に基づいたファクター投資により、アルファ(市場平均以上の投資収益)を追求するという意味では、市場平均と同じ運用成績を提供するパッシブ・ファンドの投資家には非常に魅力的に映ったようです。そのため、AQRの投資信託は大ヒット商品となりました。
 

◆AQRの運用スタイル


 AQRでは、ファクター投資に基づくクオンツ戦略を行うスタイル・プレミアム・オルタナティブ、あるいはそれらを先物などのデリバティブ中心に高頻度取引(HFT)を行うマネージド・フューチャーズ、様々な戦略を混ぜたマルチストラテジー、そして一般的な株式のロング・ショートも行っているほか、リスク・パリティ戦略も取り入れていました。

 リスク・パリティ戦略とは、株式、債券、商品、クレジットといったボラティリティ(予測変動率)の異なる金融商品の投資ウェイトを調整して、ポートフォリオ全体のボラティリティを一定に保つ戦略です。この戦略は第9回で取り上げたブリッジウォーター・アソシエイツを率いるレイモンド・トーマス・ダリオ(通称レイ・ダリオ)が、個人の資産管理用に考えたアセット・アロケーション(資産配分)でしたが、レイ・ダリオは後にオール・ウェザー(全天候型)ファンドとして顧客に開放し、大ヒットとなった運用戦略です。
 
▼ブリッジウォーターのレイ・ダリオ(前編)―デリバティブを奏でる男たち【9】
https://fu.minkabu.jp/column/1095

▼ブリッジウォーターのレイ・ダリオ(後編)―デリバティブを奏でる男たち【9】
https://fu.minkabu.jp/column/1096

 この他にもAQRは2018年に、ファクター投資による債券の投資信託を始めました。株式と同様に債券でも、モメンタム(勢い、株価のトレンドは継続するというファクター)のほか、バリュー(価値、割高銘柄より割安銘柄の方が優れたリターンを提供するというファクター)に関連したキャリー(金利差)というファクターが存在すると考えられています。これは高利回りの債券が低利回りの債券よりも優れたリターンを提供するといった傾向を指します。AQRではマルチストラテジーファンドを通じて20年近く債券に投資してきましたが、債券のみのファンドは、このときが初めてです。

 似たようなタイミングでAQRは日本にも進出しています。日本国内の年金基金などといった大手機関投資家は低金利による運用難で組み入れ資産の多様化を進めていたため、需要拡大の余地があると判断し、営業拠点を開設しました。ところが、この債券ファンドと日本拠点はいずれも上手くいかず、数年で閉鎖するなど、AQRは積極的に手を広げる一方で見切りも早いといった一面がうかがわれます。

 このようなAQR は前編でも触れた通り、2018年のピーク時には約2260億ドルもの運用資産を誇るまで成長しましたが、2022年3月末現在は約1455億ドルとピーク時から大きく減少しました。その背景には、2018年後半から再び運用成績が悪化したことが挙げられます。アスネスが「クオンツの冬」と呼んだ、苦しい時期は2020年いっぱいまで続いたようです。このような事態は、およそ10年前後の周期で起きているようですが、クオンツの好成績→資金集中→成績悪化→資金離散→好成績といったパターンを繰り返しているとみられます。となると、今後数年はクオンツ好成績のタイミングとなるのでしょうか。(敬称略)
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。