デリバティブを奏でる男たち【89】 ムーア・キャピタルのルイス・ベーコン(前編)

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 前回は2024年8月の相場急変時に数億ドルの利益を稼いだと報じられたカーコスワルド・キャピタル・パートナーズの創設者、グレゴリー・ジョン・コフィー(Gregory John Coffey)を取り上げました。

 今回はコフィーが一時期在籍していたムーア・キャピタル・マネジメントの創設者、ルイス・ムーア・ベーコン(Louis Moore Bacon)を取り上げます。ベーコンはヘッジファンド創設者にありがちな、徹底した秘密主義者です。マスコミに出たがりませんし、過去の運用成績を公表することにも慎重のようです。

 こうしたマスコミ嫌いとしては、他にも第28回で取り上げたブレバン・ハワードのアラン・ハワード(Alan Howard)、第34回で取り上げたバウポスト・グループのセス・アンドリュー・クラーマン(Seth Andrew Klarman)、第59回で取り上げたCVCキャピタル・パートナーズのマイケル・スミス(Michael Smith)などが挙げられます。マスコミにしてみれば困った話なのかもしれませんが、自分や家族の身を守るためには情報を制限することも必要なことですし、何かあっても、マスコミが身の安全を保障してくれるわけではありません。そのため、彼らにしてみれば秘密主義は当然のことなのでしょう。

▼ブレバン・ハワード(前編)―デリバティブを奏でる男たち【28】―
https://fu.minkabu.jp/column/1449

▼バウポストのセス・クラーマン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【34】―
https://fu.minkabu.jp/column/1565

▼デリバティブを奏でる男たち【59】 マイケル・スミスのCVCキャピタル(前編)
https://fu.minkabu.jp/column/2007
 

◆ベーコンの素晴らしい環境


 ベーコンは1956年に米国ノースカロライナ州で生まれました。高校はバージニア州のエピスコパル私立高校に入学します。同校は第2回で取り上げたタイガー・マネジメントのジュリアン・ハート・ロバートソン・ジュニア(Julian Hart Robertson Jr.、1932-2022)の母校であり、ベーコンが在籍していた当時の校長は、第29回で取り上げたマーベリック・キャピタルのリー・サンフォード・エインズリー3世(Lee Sanford Ainslie III)の父親でした。エインズリー3世も同校出身であり、タイガー・マネジメントで働いていたタイガー・カブの一人です。

▼タイガー・マネジメントのジュリアン・ロバートソン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【2】―
https://fu.minkabu.jp/column/945

▼リー・エインズリー(前編)―デリバティブを奏でる男たち【29】―
https://fu.minkabu.jp/column/1465

 高校を卒業した後、ベーコンはバーモント州のミドルベリー大学でアメリカ文学を専攻します。在学中はニューヨーク証券取引所のスペシャリスト(フロアの値付け業者)であるウォルター・ニルズ・フランク・アンド・カンパニーでランナー(フロアにいるトレーダーの注文を取り次ぐ従業員)をしていました。同社の創業者であるウォルター・ニルズ・フランク(Walter Nils Frank、1908-2000)は、後にニューヨーク証券取引所の会長になります。

 大学を卒業した後、ベーコンはニューヨークでコーヒー、ココア、砂糖取引所の事務員として働きました。このときに影響を受けたのが、前回も触れたチューダー・インベストメント・コーポレーションのポール・チューダー・ジョーンズ2世(Paul Tudor Jones II)だったそうです。ジョーンズとアパートをシェアしていた人物が、ベーコンの兄であるザカリー3世(Zachary III)とルームメイトだったことから、彼らは知り合いだったと思われます。

 その後、ベーコンはコロンビア・ビジネス・スクールに入学しました。在学中は学生ローンで得た学費を使い込み、砂糖、綿花、金などの商品先物取引で勝負しましたが上手くいきません。相場で溶かしてしまった学費の穴埋めを父親に頼み込むことが続きましたが、4年目にしてようやく利益が出るようになりました。このときにベーコンはリスクの扱い方について学んだそうです。
 

◆失敗続きでも諦めない

 

 同スクールでMBA(経営学修士)を取得した後の1981年、ベーコンは米大手投資銀行のバンカーズ・トラスト(1999年にドイツ最大の銀行であるドイツ銀行が買収)に就職します。前回紹介したコフィーも1994年に同社で働き始めますが、ベーコンは水が合わなかったらしく、1982年には同社を辞めてしまい、ウォルター・ニルズ・フランク・アンド・カンパニーに戻りました。そこで通貨取引を始めますが、やはり上手くいきません。

 仕方なく米投資銀行シアーソン・リーマン・ハットン(後のリーマン・ブラザーズ、2008年に経営破綻)の先物ブローカーに転職しました。ベーコンはジョージ・ソロスのソロス・ファンド・マネジメントでヘッド・トレーダーをしていた兄のザカリーとジョーンズから先物の注文をもらい、すぐに成績がトップになります。それと同時にソロスとジョーンズの注文を通じて、彼らの投資スタイルを学びました。

 1985年にベーコンは、第46回で取り上げた伝説の商品ヘッジファンド、コモディティーズ・コーポレーションから10万ドルの資金を提供してもらい、再びトレードに挑みますが、ここでも上手くいきません。提供された資金の3分の1を吹き飛ばしてしまい、残額の返還を主張しました。しかし、コモディティーズで執行役副社長をしていたミルドレッド・エレイン・クロッカー(Mildred Elaine Crocker)は、その数年後に再び挑戦するようベーコンを説得します。

▼コモディティーズ・コーポレーション(前編)―デリバティブを奏でる男たち【46】―
https://fu.minkabu.jp/column/1800

 1970年にコモディティーズの社員となったクロッカーは当初、事務管理やオフィス管理、会計業務など、経営陣がやりたがらない雑務をすべて行うことが仕事でした。その後に彼女は、才能あるトレーダーの発掘と育成に類稀なる能力を発揮します。コモディティーズは長年にわたり、優れたトレーダーを特定するためのさまざまなツールと手法を試してきました。例えば、チェスやポーカーで成功しているプレイヤーを探し、心理学者を雇ってトレーダーと仕事をさせ、筆跡分析を使ってどのトレーダーが成功しそうか、を見極めようとさえしました。こうした努力を積み重ねても、後に最も成功したトレーダーとなった人たちを見落としてしまうこともあったそうです。クロッカーがそこから学んだのは、完璧を目指さないこと、失敗から学ぶこと、そして常識を決して忘れないことでした。

 後にコモディティーズは、ジョーンズやベーコンに加え、第47回で取り上げたキャクストン・アソシエイツを創設したブルース・スタンリー・コフナー(Bruce Stanley Kovner)など、数々の伝説のトレーダーを見出し、ここにクロッカーが大きく貢献します。こうした能力が高く評価され、クロッカーは1994年にムーア・キャピタルに招聘された後、ムーア・キャピタルの社長になりました。

▼老舗マクロ系ファンド、キャクストン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【47】―
https://fu.minkabu.jp/column/1817

(敬称略、後編につづく)

 

 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。