アパルーサ・マネジメントのデビッド・テッパー(前編)―デリバティブを奏でる男たち【14】―

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◆ヘッジファンド報酬ランキングの常連


 第14回はアパルーサ・マネジメントのデビッド・テッパーを取り上げます。彼は高額報酬ランキングで常に上位にランキングされるヘッジファンド・マネージャーです。彼が創設したアパルーサ・マネジメントは2019年まで年平均およそ25%という驚異的な運用成績を誇っていたという報道もあるくらいですから、高額報酬も当然のことなのかもしれません。ちなみに、彼の最高年間報酬額は2009年の40億ドルとされています。

 1957年9月生まれのデビッド・アラン・テッパー(通称デビッド・テッパー)は、米国ペンシルベニア州ピッツバーグのユダヤ人の家庭で育ちました。何かと争いごとの絶えない地元のピーボディ高校を冴えない成績で卒業しており、評価がAだった科目は一つもなかったといわれます。

 ところが、その後に入学したピッツバーグ大学では、経済学を専攻してトップの成績を収め、飛び級により3年半で卒業しています。このギャップは、彼の優れた「直観像記憶」が要因であると推測されます。「直観像記憶」とは、見たものを写真のように正確に記憶して後から再現できるという特殊能力です。恐らくは大学時代に、この能力が存分に発揮されたのでしょう。

 大学卒業後の1978年に、地元の地方銀行エクイバンクの信託部門でクレジット・アナリスト、および証券アナリストとして勤務します。しかし、待遇に不満を抱いて会社を辞め、カーネギーメロン大学のビジネススクールで学び直すことにしました。そこでは経営学修士号(MBA)に相当する産業経営学修士号(MSIA)を優秀な成績で取得しています。

 卒業後は米鉄鋼会社リパブリック・スチールの財務部門で2年間働き、1984年にキーストーン・ミューチュアル・ファンズ(現在はウェルズ・ファーゴ<WFC>の子会社エバーグリーン・インベストメント)のジャンクボンド(※)部門のアナリストとして1年間勤務します。そして、その後にゴールドマン・サックス・グループ<GS>へ転職しました。(※ジャンクボンド=格付けがBB+以下、投資不適格で債権回収の可能性が低い債券、ハイイールド債ともいう)

ジャンクボンドのイメージ
 

◆ゴールドマンからの独立


 ゴールドマンでは当初、ジャンクボンド部門のクレジットアナリストをしていましたが、年末にはジャンクボンド・トレーダーに昇格。翌年には同部門のトップトレーダーとなります。ところが、仕事に専念しすぎるあまりか周囲への配慮に欠けていたらしく、評判は良くありませんでした。

 会社には何百万ドルという利益をもたらし、1988年と1990年の2度にわたって同社の役員候補となりますが、いずれも却下されてしまいます。当時、ゴールドマンの共同会長となり、後に財務長官にもなるロバート・ルービンにテッパーは助言を求めましたが、彼をしても手助けができませんでした。これにより会社員は自分に向いていないと判断したのか、テッパーは独立を決意します。

 1993年になると、同じくユダヤ系で後にヘッジファンド、MFPインベスターズを創設する投信業界の巨人、マイケル・F・プライスのオフィスに席を借りて独立の準備を始めます。そして、ゴールドマン・アセットマネジメントでシニア・ポートフォリオ・マネージャーをしていたジャック・ウォルトンとともに、5700万ドルをかき集めてファンドを設立しました。
 

◆アパルーサの投資スタイル


 このときにテッパーは社名を「ペガサス」にしたかったのですが、この神話に登場する天馬の名は既に多くの会社で使われていたため、現実の馬の品種名でアルファベット順の上位にあった「アパルーサ」としました。ちなみにアパルーサという品種はアメリカ原産で、ブチ毛やまだら模様といった特徴のほか、蹄(ひづめ)が固くて縦じまが入っている個体も多いなど、強い個性があります。もっとも社名に強い個性を求めていたというより、「A」から始まる社名にこだわっていたようでした。というのも当時のトレードは、アルファベット順にファックスを受け取って注文処理をしていたからだそうです。

 アパルーサは設立時からしばらくは、ジャンクボンド投資のブティック(特定の分野に特化した金融ビジネス業者)として、経営に行き詰まった企業の債券に集中投資するディストレスト投資により高い収益を上げていました。また、通常のヘッジファンドとは異なり、投資対象をある程度分散せず、30程度の少ない投資対象に集中するというスタイルを通じて、設立時の5700万ドルは3年間で7億ドルを超える規模に膨らんだといいます。

 もちろん良い時ばかりではありません。ドリームチームと言われたヘッジファンドのLTCM(Long Term Capital Management)が破綻した1998年にはマイナス29%、米総合エネルギーIT企業大手のエンロンが破綻した翌年の2002年はマイナス25%、そしてリーマン・ショックが起きた2008年にはマイナス27%と厳しい成績だった時もあります。当時の事情は以下に詳しく書かれていますので、参考にしてください。

▼1998年 LTCM(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/667

▼1998年 LTCM(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/668

▼2001年 エンロン(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【6】
https://fu.minkabu.jp/column/678

▼2001年 エンロン(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【6】
https://fu.minkabu.jp/column/692

▼2007年 サブプライム問題(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【8】
https://fu.minkabu.jp/column/724

▼2007年 サブプライム問題(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【8】
https://fu.minkabu.jp/column/733

ICE BofA 米ハイイールド・インデックスの推移(ポイント)

出所:Refinitiv、日次データ



 特に2008年のリーマン・ショック時は以前からサブプライム問題に気づいてはいたものの、2005年に破綻した自動車部品最大手のデルファイ・コーポレーション(現在のアプティブ<APTV>)の大株主として、同社との訴訟に4年もの歳月を費やしてしまい、売りを仕掛けるチャンスを逃してしまったそうです。ところが、アパルーサの底力はこれら運用成績が悪かった年の翌年にこそ発揮されます。一体どういうことでしょうか。(敬称略、後編につづく
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。