シタデルのケン・グリフィン(前編)―デリバティブを奏でる男たち【8】―

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◆グリフィンの経歴


 第8回は、第6回で紹介したメルビン・キャピタル・マネジメントを率いるガブリエル・プロトキンが一時在籍していたイリノイ州シカゴの米金融機関、シタデルLLC(旧シタデル・インベストメント・グループ)を創業した、ケネス・コーデレ・グリフィン(通称ケン・グリフィン)を取り上げます。

 今回の主役であるグリフィンは、メルビンがゲームストップ<GME>の急騰で大損した際に20億ドルもの資本を注入しており、前回に取り上げたスティーブン・A・コーエンと同様、プロトキンとのつながりが深い人物と言えます。

 また、コーエンのポイント72アセット(旧SACキャピタル)とシタデルは、ともに有望な人材に対して非常に高額な報酬を支払うことで有名ですが、それだけ要求が厳しいのか長続きはせず、常に人材を奪い合っているようです。これに対してあるマスコミはシタデルのことを「シカゴの回転ドア」などと揶揄したほどです。

 1968年にフロリダ州デイトナビーチで生まれたグリフィンは、高校時代からEDCOMと呼ばれる教育用ソフトウェアの販売会社を経営するなど、普通の高校生とは少し異なる存在でした。ハーバード大学に入学した彼は、1986年に米テレビショッピング専門局の大手、ホームショッピングネットワークが在庫を過大評価しているという経済雑誌「フォーブス」の観測記事を読み、値下がりを見込んで同社株のプットオプションを買います。

 株価は見込み通りに下落して5000ドルの利益を得たはずでしたが、ブローカーの手数料の大きさにグリフィンは憤慨し、金融理論の猛勉強を始めます。そして、スタンダード・アンド・プアーズの株式ガイドで、株価と転換社債の理論価格の食い違いを偶然見つけます。
 

◆転換社債のアービトラージ(裁定)戦略


 転換社債とは、正式名称を転換社債型新株予約権付社債といい、転換請求期間内であれば発行時に決められた転換価格で株式へ転換することができる社債のことです。例えば転換価格が2000円と決まっている額面100万円の転換社債を100万円で購入したとします(手数料、税金は無視します)。この転換社債を株式に転換すると社債発行企業の株式500株(=100万円/2000円)が手に入ります。

 社債発行企業の株式が2000円から2400円に値上がりすると、転換社債の理論価格(パリティ)も100円から120円(=株価2400円/転換価格2000円×100)へ同じように値上がりします。

 その一方、株価が値下がりしても転換社債は同じようには値下がりしません。というのも転換社債は株式に転換しなければ社債のままですので、あらかじめ決められた利息を定期的に受け取ることになりますし、満期になれば額面で償還されます。そのため、社債発行企業の債務不履行(デフォルト)リスクが高まらない限り、債券として価格下方硬直性があります(下左図)。


 ところが、株式市場が非常に堅調な地合いになると、株価の上昇スピードに転換社債の価格が追いつかず、転換社債はパリティよりも割安に放置されることがあります(上図右)。こんなときに転換社債買い・株売りといった裁定ポジションを持つことで株価下落をヘッジしながら、転換社債が理論価格に回復するのを待つ、といった投資戦略が可能となります。

 もちろん、こうした戦略を用いることによって株価が急落した場合、転換社債には債券としての価格下方硬直性がありますので、株売りポジションが利益を生みます。グリフィンは1987年に祖母などから26万5000ドルをかき集めて、この投資戦略を実行します。そして、その直後にブラックマンデーが起きて大儲けすることができたのです。
 

◆頭角を現すグリフィン


 1989年に大学を卒業したグリフィンは、ヘッジファンドのパイオニアと言われるシカゴのグレンウッド・パートナーズの共同創設者、フランク・C・マイヤーに注目されます。マイヤーから100万ドルの特別勘定の運用を任されたグリフィンは、転換社債のアービトラージ(裁定)戦略により1年間で70%のパフォーマンスを叩き出しました。

 1990年にグリフィンはグレンウッドの支援を受けながらシタデルの前身となるウェリントン・フィナンシャル・グループを設立します。その際に集めた運用資金は460万ドルとも言われています。彼は独自にプログラムした裁定モデルなどを利用して1991年に43%、1992年に40%も稼いでいます。

 こうした成功は運用資産の拡大と、運用戦略の多様化へとつながっていきます。前回に取り上げたSACキャピタルは、モメンタムに乗じたトレンド・フォロー型のトレードだけでなく、クオンツ(定量解析)を導入したり、企業分析といったボトムアップにより長期投資銘柄を発掘するなど、さまざまな運用スタイルや投資戦略を取り入れ、運用資産の拡大に対応していきました。

 同じようにウェリントン・フィナンシャルも、シタデル・インベストメント・グループと社名変更した1994年に株式アービトラージ戦略、1999年には債券・クレジット投資、2001年にはエネルギー投資、そして2008年にはグローバル・マクロ戦略など新たな試みを始めています。ちなみに、シタデルとは「城塞」とか「砦」を意味する言葉です。
 

◆墓場のダンサー


 シタデルがこれらの運用スタイルや投資戦略を取り入れたのには、さまざまな巡り合わせがありました。例えば1994年は、米連邦準備制度理事会(FRB)が想定外の急激な利上げに踏み切り、米債券市場が急落に見舞われます。米オレンジ郡が財政破綻したほか、アスキン・キャピタル・マネジメントが6億ドルの損失を出して破綻するなど厳しい年でした。

▼1994年 オレンジ郡の財政破綻(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【3】
https://fu.minkabu.jp/column/626
▼1994年 オレンジ郡の財政破綻(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【3】
https://fu.minkabu.jp/column/635

 この年にシタデルも年間パフォーマンスはマイナス4.3%と冴えませんでしたが、その背景には顧客解約による性急なポジションの解消がありました。後にグリフィンはファンドの解約を制限して運用資金の安定を図ります。そうした措置が奏功して、ドリームチームと称えられたLTCM(Long Term Capital Management)が破綻した1998年には、割安な水準まで売り込まれた債券・クレジットを買い漁ることができ、同市場に参入するきっかけとなりました。

▼1998年 LTCM(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/667
▼1998年 LTCM(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【5】
https://fu.minkabu.jp/column/668

 このときにライバルのヘッジファンドであるパロマ・セキュリティーズから株式や債券のレポ取引のスペシャリストを雇い、運用資金の安定化に加えて株券や債券の安定した調達環境を整えます。

 また、米総合エネルギーIT企業大手エンロンが破綻した2001年には、同社の社員を雇い入れてエネルギー投資を始め、ヘッジファンドのアマランス・アドバイザーズが天然ガスの過剰投資で失敗した2006年には、JPモルガン・チェース<JPM>とともに同社のエネルギー・ポジションと同部門を引き継ぎました。

▼2001年 エンロン(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【6】
https://fu.minkabu.jp/column/678
▼2001年 エンロン(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【6】
https://fu.minkabu.jp/column/692

 加えて、サブプライム問題でクレジット・デリバティブを得意としていたヘッジファンドのソーウッド・キャピタルが破綻した2007年には、同社の複数のポジションを買収するなど、シタデルは金融危機が起きる度に、破綻するファンドや会社などから新しい人材やポジションを取り入れたり、あるいは出資を行いました。こうした機を見るに敏な姿勢から、シタデルは「墓場のダンサー」などとも言われています。

▼2007年 サブプライム問題(前編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【8】
https://fu.minkabu.jp/column/724
▼2007年 サブプライム問題(後編)―デリバティブ投資手法の進化―破壊と創造の歴史【8】
https://fu.minkabu.jp/column/733
 

このコラムの著者

若桑 カズヲ(ワカクワ カズヲ)

証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。